その中で守られている選択と、囲われている選択は違う-が、受け取りかたでどちらとも思いこむことはできるかもしれない

急激に世界の広さが本当の意味で見えるようになってくると、それまで驚くほど狭い方向性や角度から物を言っていた(そして支配されよう支配されようという風に周りをコントロールしようとしていた)「自分自身の」言葉や見え方や思考回路と今の自分にギャップを覚え、それがゆえにしばしば「今までの自分」を受け止め寄り添い合わせてくれていた相手や環境に自分が支配され縛られていたのだ、と思い込む。
ちなみにこれは成長段階における、自分を納得させるための無理のない通常の「正当化」の範囲。
小さな子どもなどは、親が「(うん、うん、今のあなたはそう思うのね。では今はそれで、そうして)いいよ」と受け止めてくれていたとしても、成長して自分の中にどんどん自分自身の選択肢や世界がたくさん見えてくると、「今までの親が自分にそうさせていたから自分は狭い世界に閉じ込められていたのだ」と思う。
そしてそれは正常な反応であるし、それを原動力にして親の庇護や補助輪なしで自分自身で動けるようになっていったりする面もあるのだが…
だが、「毒親」という言葉が流行ってしまっている中で、本当に機能不全で適切な対応をしていなかった要するに「子ども」の親だけでなく、そういう親までもが「毒親」と思われたりやり方のまずい対人支援者と解釈され、本人がエネルギーとして感じるべき原動力(自分自身から出る親への憎しみや攻撃心や見返してやりたいような心など)が「毒親」という世間の言葉に代弁されたような気になって思いっきり感じることができず、成長の原動力として機能しきれなくなったり寧ろ成長を阻害するもやもやとなったりすることもある。

ところで、エレベーターやエスカレーターは、確かに低層階からどこまでも高層階にまで連れて行ってくれるツールである。
高層階へ行くために、ひとは「その中」にいる(エレベーターの箱に守られる)選択をするが、それはあくまで包んで見守ってもらって落ちないためであり、自分の意志で乗っており、閉じ込められているわけでも人生の一時期を支配されているわけでもない。
その人は自分の人生で「自分が行きたい場所」に行くために、自分の意志で途中で降りて行く。自分自身がひとりで宙に浮いたり垂直に登って行ったりする能力はないために、エレベーターを使う選択を自分自身でしているのだ。決して、使わざるを得ないわけでも使うことを余儀なくされているわけでも強制されているわけでもない。自分がそのツールを使う可能性が自分にあると知って、自分でそれを選んでいるのだ。
降りた時、しばしば、外の新しい今まで感じたことのない空気を感じるがために「エレベーターの中は…」合わなかった、人生の一時期を閉じ込められていた、エレベーターが勝手に私を動かして連れて行ったのだ、もっと良い運ばれ方もあったのではないか、などなどと感じることがある。
扉が開いて見知らぬ新しい広い世界や目の前に広がる新しい選択肢が、すばらしいものであればあるほど。

また、時には、エレベーターで高層階に行ってみたいが、圧力が変わったり上に速度を上げてのぼっていったりするから怖い、と言って怖がっている子どもがいるかもしれない。
そのような場合、一緒に乗る親は、もしかしたら、「高層階に行ったらこんな良いことがあるよね、だからあなたは高層階に行きたいと言ったのだよね。エレベーター、だから乗りたいんだよね」と、高層階でたくさんある世界や選択肢のうちの、この子に見える(そしてこの子も理解している)たったひとつを示して、この子がエレベーターにうまく乗れるように手助けするかもしれない。
しかし、実際高層階についたら、あらゆる世界や選択肢が見える。「親はこの選択肢だけを私にやらせようとしたに違いない、親はこれを私にやらせたかったに違いない」と思うことで、本人は自分の目の前に広がっている実は頭では信じられないがゆえに身体で感じている感覚を受け容れようとする。

エレベーターに何人か人が乗ることもあるかもしれないし、ひとりかもしれないが、しかしながら、誰もが「自分の人生で自分が行きたい場所」に行くためにエレベーターを利用し、自分で乗り、自分で降りて行く。
例えその中で如何にエレベーターを気に入ろうと、居心地が良かろうと、悪かろうと。
(ちなみに、もしこれで降りるときになって自分の葛藤や今まで一体化していたと思い込むことができていたエレベーターとの分離感を自分の中で処理するために「エレベーターのほうが変わったからだよ、エレベーターの居心地が悪くなったからだ、このエレベーターは私が行きたい階や場所に行かないからだ」とするのも、イソップ童話で有名な酸っぱい葡萄ときつねの話に例えられる「正当化」現象である。)

そしてもちろん、一度降りたい場所で降り、また「自分の人生で自分の生きたい場所」に行くために、エレベーターを利用する場合もあるだろうし、だからといって、もしかしたら今までは自分の世界の中で視野狭窄で「エレベーターしかない」とそれしか見えない状態であったかもしれないが、「〇階に行くにはエレベーターを使うしかない」と思う必要もないわけであって、何を使うも使わないも、何処へも行かない選択すらも、本人の人生の中で本人の自由な選択なのだ。

同時に、早く行きたいけれどもエレベーターより遅い乗り物を選んでしまうことや、やり方のまずい方法や本当に自分に合わない方法や、乗ったつもりが実は逆方向へ行ってしまうようなものに乗ってしまう可能性もある。しかし、それらも含めて、自分で選び自分で決め、そして「それらを全部自分の人生にどう活かす」も、自分の人生の自分の決断の自由であり、自分の人生だけのだいご味なのである。

まあ、同時に、そうなる可能性がまだ怖いからこそ(自分のその感覚を見ずにその代わり)そのエレベーターに対して「どうして私を今まで乗せていたくせに私の行きたいところに行けないように私は感じるのだ、どうして居心地が悪くなるんだ、降りちゃうぞ降りちゃうぞ降りちゃうぞお前はちゃんと私を連れてってくれるはずではなかったのか(これから私は危険なところに行ってしまうかもしれないから引き止めて)!!」と、混乱することもある、というわけなのだ。

エレベーターから降りるとき、泣いて降りる人もいれば、エレベーターを(今まで他者や環境と「犠牲者・迫害者・救済者」のどれかとして嵌り込む、これしかやってこなかったがためにこのパターンに無理やりはめ込み解釈して)迫害者に仕立てて降りる人もいる。
エレベーターに悲しみや攻撃心や執着を強烈にあらわにしながら降りる人もいる。
エレベーターに熱い涙と感謝をあらわにして降りる人もいる。
ただ単にしれっと、何も感じずエレベーターに乗った自覚もないくらいの体で降りて行く人もいる。

降りるときを今は記したが、これは乗る時もそうだ。

しかしながら、これは、エレベーターとその人との関係ではない。
「その人(本人)」の、自身の人生の中での岐路なのだ。

セラピストというエレベーターは、底知れぬ土台で地中に根を張り、誰でもあらゆるひと、あらゆる状態を受け容れることができるよう確固とした安心安全の空間を準備し(乗っているそれぞれの人が事実とは別にそれぞれの人生の中でそれに安心安全を感じるも感じないという体験をするも本人の人生での自由選択なのだが)、深く広く外側からの見守り、寄り添い、そして本人が押す(指令する)ボタンのままに寄り添う、それだけである。

エレベーターと書くとヒトとは異なる機械のようにも見えるかもしれないが、エレベーターは、乗る人、降りる人、すべての人の人生をその人の外側(大きな大きな箱)からすべて見ており、それぞれを本当に我が子同然にそして永劫愛している。
もしそれでなければ(これだけの人の人生を乗せる、それぞれの人生のドラマすべてを包み込む、このどれほど危険なことか)、そもそも最初から乗せはしない。

そして、本人の人生であるのだからその子本人の人生が例え見えていても、口出しはしない。
しかし、本人が困ってそれでいて自分の人生を立てるために自分の人生として相談してくることならそれを受け止め、「本人が自分の力で自分の人生を選び取っていくために本人がどうしたら良いか」の手助けをするのが、セラピストであり、親。


今、精神科でも診断できないし通常のセラピストから見てもただカウンセリングをするばかりしかなくなかなか本当の問題に到達しない(その上セラピストはドクターではないので診断や医療と連携できずできることが限られてしまう)、別の身体の医者にいっても問題なしなどと言われてしまう…けれども社会的に困っている、生きづらくて人生に支障がある、などという人が非常に多いです。
私たちは、そういう、どうしたらいいかわからないような人たちにも、必要なヒトと必要な支援や機関を繋ぐ、ということをしています。そしてそれを社会システム的にも可能とする体制を作っています。
その意味において、私たちは、本当に狭間に陥ってしまっているようなひとたちに、「今、この人に本当に何が必要なのか」を見ます。それは、私にできるセラピーでもあるかもしれないし、もしかしたらまずはソーシャルワーカー的な立ち回りが必要かもしれないし、もしかしたら私たちが知っている(そしてうまく繋がる繋がり方を工夫できる)まずこの人に必要な専門機関があるかもしれない。
フラットに広い視野で見た上で、目の前のクライアントさんの(本人は見えていませんがご本人の目の前に広がっている)可能性に気づくことができるよう、示唆していきます。
時には、はっきり提示提案することもあります。
が、本当にそこと本人が繋がるかどうかは、本人次第なのです。
…更に言えば、本人が繋がるにせよ離れるにせよ、本人の中での不一致(心身の歪み・認知の歪み)により、本人がそのつもりがないのにそう言ってしまったり本人の本音がその時本人自身にうまく見えていなくて自分で自分を振り回して本当に必要な機関にご自身を繋げさせないようなこともあります。
私たちは、そんな時にそこ(ご自身の本音を見る)のお手伝いをすることもできます。
しかしながら、そのお手伝いを必要とするかどうかも、ご本人がご自身の人生の中でご本人の決める意志なのです。


カウンセリングから転移感情の扱い方、臨床に持っておくに必要な基礎的な心理学理論~上級最新の心理理論、深層意識や身体のしくみなどをすべて通して、ヒトの心の不調や身体の不調の根本に(実は)存在する問題を扱うことのできるセラピスト養成システムを始動しています。
何より「対人支援者」に最も必要でありながら、現代日本の対人支援者の非常に多くが持っていない(知らない)能力を身につけ、育てて行くことができ、人生の壁を感じている当事者さんたちのどんな問題をも受け止め扱うことができるようになります。

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