人生の「コントロール感」が強すぎる人は要注意!
こんにちは!
こしあんです。
人生でも仕事でも、自分のやることに多少のコントロール感がなければ人は不安になってしまいます。
「仕事は言われるがまま」、「人生は流されるまま」と考えるとやる気も起きませんよね。
逆に「私はすべて自分の力で道を切り開いてきた!」という剛毅な方もいるかもしれません。
ただ、そのコントロール感ですが、なくても困りますが、あり過ぎてもまた困るといったお話です。
【でもコントロール感はあった方がいい】
「おい、タイトルと違うじゃないか!」とお叱りを受けそうですが、あり過ぎても困りますが、なくても困るのがこのコントロール感です。
スタンフォード大学ビジネススクール教授ジェフリー・フェファーは、とにかく何か生き物を泣かせたり、落ち込ませたり、怒らせたり、絶望させたりしたいと思ったら、確実な方法は「理由もなく行き当たりばったりに罰することだ」と言い、「あるいは、思いつきであれこれ命令し、すぐさま逆の命令を出すことである」とも言っています。
たしかに、こんな上司や親がいれば、部下や子どもはたちはどうしていいかわからなくなってしまいます。
悪い言い方をすれば、「自分が他人の意志に翻弄され、手も足も出ないと相手に思わせること」ができれば相手のコントロールを奪えるとも言えます。
仕事に関して言えば、急に納期が早まったり、いつ終わるかわからない仕事を延々とさせられたり、指示通りにやったのに不当に罵倒されたり、といった事が私たちのメンタルを削っていきます。
しかし、自分でコントロールできる部分(裁量権)があると考えるとどうでしょう。
自分の仕事がしやすいように調節することができ、ストレスも減るのではないでしょうか。
また、ロックフェラー大学では「コントロール」が人にどのような影響を与えるのかを調査しています。
まず、被験者は実験室で簡単な作業をしてもらいます。
その時、装着したヘッドホンから不定期に爆音を聞かされます。
この作業が終わると、次は他の被験者と一緒の部屋に入れられ、また別の作業ををするように指示されます。
今この部屋には、「爆音を聞かされずに作業をした被験者」、「爆音のタイミングを事前に知らされていた被験者」、「爆音がいつ鳴るか知らされていない被験者」の三つのグループの人たちがいます。
実験の結果、最初のうちは爆音が聞こえてくることで、被験者たちの自律神経の覚醒レベルは増加しましたが、短時間で爆音(ノイズ)に適応し、覚醒レベルも正常に戻りました。
じゃあ、三つのグループに違いはなかったのか?
実はその違いは後続のタスクの時に表れています。
爆音を不定期に聞かされたグループは、爆音を聞かされなかったグループと比較してミスが多く、苛立ちや他の被験者への敵意を露わにする傾向がありました。
これは爆音に適応してエネルギーを消耗したことで、マイナスの影響が見られたと考えられています。
たとえば、あなたも大きなストレスでイライラしたり、またその感情を抑え込もうとして自分の中のエネルギーを使い切ってしまい、何かの拍子に思わず”感情をぶつけてしまった”なんてことがないでしょうか。
こんな時、人は正常な判断が出来なかったりします。
このグループも、爆音を聞かされてイライラしていたところに、また別の作業をさせられ、しかもその作業の中には解決できないものも意図的に含まれていたため、八つ当たりをしてしまったと考えられます。
では、もう一つの「爆音のタイミングを知らされていたグループ」も同じなのか?
結果を言えば、タイミングを知らされていたグループは、ランダムで聞かされていた被験者よりも短時間で適応でき、主観的なストレスも低く測定されました。
これは一種の「コントロール感」の効能だと考えられています。
あなたも、いつ来るか分かっていれば「心構え」ができてちょっと余裕ができますよね。
次の実験のバリエーションでは、被験者が爆音が耳障りだと感じたときは、停止ボタンを押すことが許可されました。
何度も実験は繰り返されましたが、ボタンは滅多に押されなかったそうです。
被験者がほとんどボタンを押さないので、ついに研究者たちはダミーのボタンを用意しました。
それでも、「いざとなればボタンを押して爆音を止められる」というコントロール感を得た被験者群は、対照群に比べ明らかにストレスが減っていたそうです。
爆音に身体的に適応し、正常時の覚醒レベルに戻るのが速く、後続のタスクにもマイナスの影響が減り、苛立ちや敵意を表すことも少なかったそうです。
さて、ここまで書くとコントロール感はあった方がいいと感じますが、一体どんな問題が隠れているのでしょうか?
【コントロール感があるが故に】
ここで少し、ちょっと変わった話を紹介したいと思います。
これはアメリカにあるエレベーターの話です。
アメリカでは90年代以降に建てられた、あるいは設置されたエレベーターの「閉」ボタンは機能していないという話があります。
なぜ機能していないボタンが取り付けられているのかと言えば、それが作動していると思わせるためです。
つまり、作動しない「閉」ボタンをコントロールできるという錯覚を与えるため、偽のボタンが定位置に残されているというわけです。
しかし、なぜこんなことをするのかと言えば、それは安心を与えるためなんです。
たとえ実際はダミーのボタンだとしても私たちは≪ボタンを押す➡やがてドアが閉まる➡脳はボタンによってドアが閉まったと告げる≫といったサイクルに安堵します。
実際は機能していなくても、「自分がドアを閉めている」というコントロール感で安心しているわけです。
同じように、ボタンを連打するとドアが速く閉まるような気がするのも一種のコントロール感ではないでしょうか。
ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ客員研究員のロブ・ブラザートンは、私たちはコントロール感を求めるあまり、「因果関係を探さずにはいられない」と言っています。
だから「ボタンを押すと反応がある」という因果関係がひどく落ち着くのです。
コントロール感を研究したものは他にもあります。
介護施設の入居者を対象にしたもので、このような施設にデューク大学の学生を定期的に訪問させ、交流を持ってもらうという実験をしました。
まず3つのグループを作ります。
①入居者に学生がいつ訪問するかを決められるグループ(コントロール感)。
②自分たちでは学生の訪問日時を決められないグループ。
③まったく訪問を受けない対象群のグループ。
そして、学生が施設に滞在する時間や交流の内容は①、②のグループも全く同じです。
実験の結果、訪問時間をコントロールできた入居者の主観的幸福度や健康は、コントロール感を持たないグループよりも高まっていました。
「何だ良いことじゃないか」と思うかもしれませんが、問題はそのあとです。
学生が卒業してしまい、施設への訪問は唐突に終わりを告げました。
その結果、入居者は突然コントロール感を失うことになります。
その後の調査で、コントロール感を持っていたグループは、持っていなかったグループに比べ、健康や幸福感に著しい減少が見られ、死亡率すら高まったことがわかりました。
人が安心して生活する上で、コントロール感は確かにあった方がいいのですが、突然失われたらどうなるのかも考えなければなりません。
最後に
「運命は自分で変えられる!」と強く思う人は、強いコントロール感を持っています。
「自分の人生は自分で切り開く!」といった言葉はとても前向きで、力強く他者を魅了するかもしれません。
また、それは時に大きな原動力になり、モチベーションの維持にもつながりなります。
しかし、私の個人的な意見ではありますが、強すぎるコントロール感は「人の気持ちに寄り添う」ことが難しくなってしまいます。
「自分の力で人生は完全にコントロールできる」という万能感は、逆を言えば、「人生がうまくいっていない人は努力が足ない」といった思考になりがちです。
もちろん、努力したからといってそれが報われるわけではありませんし、努力をしなければ届かない場所もあります。
しかし、この努力のやり方や度合いを自分の基準で考えてしまうと、そこまで到達していない人を「サボっている」、「楽をしている」といった言葉で片づけてしまいます。
「自分はここまで出来た!」という自信はとてもいいものです。
だからといって「あなたもここまで出来るはずだ」という考えを相手に押し付けてしまうと相手を苦しめることもあります。
到達できる場所は同じでもアプローチは違うかもしれません。
強すぎる万能感は時に目を曇らせます。
もしかしたら、私たちはダミーのボタンを押し続けているのかもしれません。
人生にはコントロールできないことも起こり得るという事を忘れないでください。
でなければ先ほどの施設の人のように、コントロール感を失ったとき、深い絶望を味わってしまいますからね。
今回はここまで
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それではまた次回お会いしましょう。
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