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自己破壊としての学習

※本文章は、2023年1月末日にHCD-Net会員向けニュースレターに寄稿したHCDコラムの転載です。

個人的なことで恐縮ですが、3年前から大学院の博士後期課程に身を置いて研究のマネごとのようなことをしています。訳のわからない研究テーマを手探りで研究することはとても苦しい反面、矛盾するようですがこの上なく楽しいものでもあります。

ところが、自分が興味を感じているテーマについて勉強すればするほど、以前ほどそのテーマについて純粋に「面白い」と思えなくなってきている自分に気づくことがあるんです。それと同時に、そのテーマについて以前とは違ったモノの見方を無意識にし始めている自分にも気づきます。「みんな、◯◯のことをこういうもんだと語っているけど、ほんとはそうじゃないんじゃないの?こういう見方のほうが適切なんじゃないの?」というように、言ってみれば自分がへそ曲がりや天邪鬼になってしまったような感覚になるのです。

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの研究をされている立命館大学の千葉雅也先生は著書『勉強の哲学ーー来るべきバカのために』(文藝春秋)で、「勉強とは、わざと『ノリが悪い』人になることである。」と書かれています。勉強して新しい知識が身につくと自分自身が成熟し、それまで快適で当たり前に感じていた仲間内の「ノリ」が急に窮屈で薄っぺらい、つまらないものに感じられてしまうようになるんだそうです。つまり、勉強するということは自分自身をこれまでのノリから新しいノリに移行させてゆく「自己破壊」や「変身」のような行為だということなのです。

2018年、篠原理事長が現職に就任された際に発信されたコメントで、HCD-Netという組織の存在意義を「プロたちのナレッジ共有の場」だと再定義されました。プロとはまさに、自身が勉強を重ねる中で得た知識を互いに共有・交換し、さらに新たな集合知を生み出してコミュニティに貢献しようとするひとのことを指すのではないかと思います。自分とは異なるそれぞれの「ノリ」をもつプロ同士が、互いの知を重ね合わせていく中でコミュニティに新たなノリが生みだされてゆく営みこそが「学び」なのかもしれません。
HCDの領域は学術的にも実践的にも日々めまぐるしく変化・進化しています。普遍的な知識や知恵をリスペクトすると同時に、昨日まで快適に感じられたノリを少し疑ってみることで、面白い新たなノリを見つけだしていくような学びを、このコミュニティで実践して参りましょう。

ぼくが担当理事を拝命している教育事業部では、会員の皆さんにとって面白いと思える「新しいノリ」を見つけ出すきっかけになるようなイベントを、今年もたくさん企画していきたいと考えています。教育事業部の活動に興味をお持ちいただける方は、ぜひぼくらの仲間になってください。気軽にお声がけいただけると嬉しいです。

■参考文献
千葉雅也 (2017). 『 勉強の哲学 : 来たるべきバカのために』文藝春秋.



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