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映画「キングスマン」銀のスプーンを持たずに生まれたアンダードッグへのエール
すごくおもしろい。私これ好きだ。でも、2023年に見ると言わずにいられないのは、これって陰謀論の映画じゃないですかーーー!(笑)
耳の裏側に埋め込まれたマイクロチップ、無料SIMカードが受信する特殊電波によって狂暴化し殺し合う人々。それは地球のため人類の数を減らそうとする億万長者の陰謀で‥‥
特にコロナ禍以降、よく聞くようになった話やんw
いや、そんなことを言い出したら、映画は昔から陰謀論の宝庫だ。マトリックスもミッション・インポッシブルも、ロンドン五輪でエリザベス女王と共演するに至ったジェームス・ボンドだって陰謀論映画の主人公といえるかもしれない。
「決して表に出ることのない黒幕が世界を差配している」というのは人間がよくする想像のひとつで昔々からあった。それを豊かに膨らませた創作は、ポピュラーからアンダーグラウンドまで、20世紀のエンターテイメントだった。
けれどメディア環境の変化でフェイクニュースが跋扈し、グローバリズムによる歪みがあらゆるところから滲出するようになった現状では、このような楽しい映画もあっというまに切り貼りされて陰謀論の素材になってしまうんだろう。
や、「もうこういう映画を作るべきじゃない」なんて思ってるわけじゃない。
むしろ逆で、良質のフィクションにたくさん触れ、人間の想像力や創作の類型に慣れることが免疫になると思うんだけど‥‥。
インスタントでショートな作りのコンテンツに慣れると、映画1本を見るのも腰が重くなるのは致し方ないですね。
「伝統の紳士服テーラーが実はエリートスパイ集団の秘密基地で、英国紳士の傘やら靴にも武器が仕込まれている」というオタク的感性を刺激する設定。また、同期で紅一点のロキシーがヒロイン格の役割を担わず、むしろエグジー×ハリー、エグジー×マーリンという男性同士の関係性のほうに「萌え」を誘導する作劇は、日本人にも非常に親和性が高そうな映画だなあ‥‥
と思いながら見ていたら、なんと、視聴後に「BTSがいかにキングスマン好きか」という考察ノートを見つけた!
なるほど、私が大好きなジン・ジョングクのGalaxyのCMも、キングスマンのモチーフだったのね。
BTSとキングスマンの共通点は、「銀のスプーンを持たずに生まれたアンダードッグ」ということ。
ただし、BTSのメンバーは地方から小さな事務所に入り、数々の苦労を重ねるが、最初からあふれんばかりの情熱と努力できる才能をもっていたのに対し、映画の主人公エグジーはもっとひどかった。
幼いころに父親を事故で亡くし(実は父親もまたエリートスパイだったわけだがそうとは知らず育ち)、母親の再婚相手は町のゴロツキでしかもDV男。家は貧しく、本人も落ちこぼれて生活は荒んでいた。
自分を卑下している若い人を見るのはつらい。
だから、ハリーに見込まれたエグジーがスパイの訓練で頭角を現す姿は痛快だし、ウィットに富んだシーンやカタルシスを感じるいろんなシーンの中でも一番好きなのは、ハリーがエグジーに向かって
「私には見える。可能性にみちて、正義をなそうとする若者が」
と語りかけるシーン。
これは、この映画を貫く”紳士”観につながっていて、ハリーのキメ台詞「礼節が紳士を作る」は、「人は生まれた家柄によってではなく、学んで紳士になる」という、アンダードッグつまり韓国でいうところの”泥のスプーン”しか持たない者たちへのエールであると同時に、エリートだろうがスパイだろうが、単に高い能力があるだけでは意味はなく「正義をなそうとする」ところに人間の価値があると示しているのだ。
(ま、陰謀論的な視点で見れば、これも年長者が若者を戦場に駆り立てるときの常套句だととれなくもないが‥‥)
そして、BTSも、アンダードッグ時代から社会正義を語り、名を成してからも自分たちのもつ影響力を社会を良くするために行使しようとつとめてきたチーム‥‥だと私は思っている。
閑話休題
マーリンとシェルターに乗り込み、義足の女戦士ガゼルとの死闘の末、ヴァレンタインの陰謀から世界を救ったエグジー。
(そう、世界を救ってしまうのだ!これぞ映画であり陰謀論でもある)
彼が真っ先に向かうのが、同期のロキシーでも母親でもなく、ヴァレンタインによって幽閉されていたスウェーデンの王女で、王女は丸いお尻を差し出して待っており、二人が幽閉部屋で(よりによってお尻で!)楽しむことが示唆されるラスト‥‥最高にゲスだから粋! 好きだ。紳士観にブレがない。
エグジーを演じるタロン・エガートンの顔がいい。
映画の公開当時23歳だから、撮影時はもう少し若かっただろう。
かわいいけれど、ふとしたときに見せる苦み走った表情がいいのだ。
無料SIMカードと体内に埋め込むマイクロチップで人口を激減させようとしたIT長者を演じるサミュエル・L・ジャクソン、闊達に見えるからこそおそろしくてハマってる。女戦士ガゼルも強く美しく怖くて魅力的だった。
ハリーが暴れまくる教会の惨劇や、狂暴化した人々が争い合う様子は見どころのひとつで、じっくり尺をとるものの、音楽と共にポップに表現されている。
シェルターの人々の頭が吹っ飛ぶ(というか消える)のも、小さな花火がポンポン上がるような演出。
それらは映画的に魅力的なシーンだったし、戦ったり倒したり、人が闘争に魅了される本能(?)も満足させてきたのがエンターテイメントだと思う。
けれど、それらを見ながら思い浮かんだのは、コロナ禍で混乱していた国内外の病院の映像。
おととしだったか、合衆国議会に武器をもった暴徒たちがなだれこんだ事件。
そして、ウクライナやガザで今も流れ続けている生身の人々の血、失われる命‥‥。
もちろん平和な世界なんて一度も実現したことないのだけれど、この数年、現実の惨禍を見続けたせいか、多額の予算と技術を投じて作られた「世界が終わる」系の映画にどこか没入できない自分を感じもしたのだった。
(2023.10.21 wrote)