リュートの現代曲の演奏について
私が専門としているのは、主としてヨーロッパのルネサンス時代(15世紀後半から16世紀全般)のリュート音楽です。
したがって普段は、それらの時代の音楽のプレゼン機会が多いわけですけども、その一方で、
「リュートで現代曲を演奏することはありますか?」
と聞かれることもよくあります。
実は、直近(明後日から始まる!)のお仕事が、現代曲の演奏会と録音。
(ここで「現代曲」が何かを明確にするのは、自分の能力を遥かに超えます。さしあたり書下ろしされた上で近々初演予定の曲、または昔に作曲されたものでも今の上演時点で作曲者がまだ存命である曲のこと、ぐらいにしておきます。)
幸いなことに私は、留学する前の時点で既にいくつか、ルネサンス・リュートを使っての現代曲の上演に関わらせていただく機会に恵まれました。
中でも特に思い出深いのが、アンサンブル・ボワ(Ensemble Bois)という現代音楽を演奏する若手中心の団体にお誘いいただき、イタリアの作曲家アルド・クレメンティ(1925~2011)の作品の個展を行ったことです。
クレメンティには、ジョン・ダウランドやミケランジェロ・ガリレイなど、今から400年ほど前のリュート音楽から着想した作品が複数あり、通常はクラシック・ギターで上演されることが多いそれらの曲を、実際にリュートを用いた形としては、日本初演という場に居させてもらったのです。
光栄なことであるとともに、一奏者としてとても良い経験になりました。
(ちなみにそのときの共演者には、先年ちくわ笛の演奏で一躍有名になったあの方も含まれています!)
この翌年のこと。
アルド・クレメンティのリュートに関連した作品と、17世紀のさまざまなポリフォニー音楽を織り交ぜた、「音の綾取り」と題した演奏会を都内で開きました。これもまた、とても印象に残っています。
それから私はほどなくして留学して日本を離れましたが、この公演時にご一緒させていただいた方々とは、現在にいたるまで長く交流が続いています。
古楽と現代曲は、実践・アプローチの面においてとても親和性が高いと、日々感じます。
両者ともに「はじめてその音楽が鳴り響く(または、響いたであろう)瞬間」に神経を集中させる、というところに主眼があることと無関係ではないでしょう。
一般的に、古いものと新しいものを脈絡なしに並べただけだと、全体として良いものができるとは限りませんが、プログラムが確たるコンセプトに基づいていれば、現代曲と古楽の作品のコラボは、予想を遥かに超えて良い結果を生みます。
ただしポリシーとして、「現代に新しく作曲されたものは、例えどんなに良い曲であっても、古い楽器を使っての演奏は拒否する!」
という頑なな態度をとる奏者が、自分より下の世代も含めて、古楽の専門家の中に一定数います。
私の意見として、そうした人の姿勢も当然尊重されるべきと考えます。
しかし自分自身について考えると、常に自分を古い音楽の世界のみに押し込めていてはどうなのかな?という思いがあります。
これまで回数は少ないながらも現代曲に関わった経験が、その後の糧になっていると感じることが多いからです。
唐突ながら、昭和の落語の大名人である三遊亭圓生(1900~1979)の肉声をお聴きに入れましょう。
「笑点」メンバーで現在闘病中の、当代三遊亭圓楽師の大師匠。
記憶力抜群で驚異的なレパートリーを誇り、晩年まで芸を磨き続けました。
これはごく近年まで存命だった、古典芸能評論家の小山觀翁(かんおう)氏が、自身の経営していた都内の料亭に三遊亭圓生師を招き(他にもここには、多くの一流芸人が呼ばれたようです)、口演した後に一般のお客の方からの質問にすぐ答えたもので、非常に貴重な芸談記録です。
今回の話題に関連してこれを取り上げた理由は、圓生師が「古典と新作」についての所見を肉声で語っているところにあります。
そのまま文字起こししてみましょう。太字は私が付けてみました。
(上の動画の1:56付近より)
質問者の一般男性:
「鶉衣(うずらごろも)」のような、いわゆる重厚な新作を新しくやられるときと、昔からの古典を新しくやられるときと、ご苦労がかなり違うかとは思うんですけども、その辺をちょっとお伺いしたい・・」
小山觀翁氏:
「いい質問!」
三遊亭圓生師:
「えー、古典というものは、これで自然淘汰になりましてね、できなくなる話も・・これから先できてくるだろうと思います。ですから、新作というものも、どんどんやらなくてはいけないわけで。ただし、新作はその場限りでもっておしまいになるものではどうも私はやっぱり納得ができないわけで。新作といいますとね、今はサラリーマンが出てくる話でないと新作じゃないと思ってんです。けど、新しくやるものは私はあくまでも新作ではないかと思いますね。あながち八つぁん熊さんであるから、古いという考えは、私は間違っているんじゃないかと。ですから、それはやるにしてはやはりいいものをやりたいと。それから、作をなさる方もですね、やはり残るような、いい話をこしらえていただきたい。」
圓生師については、生前から徹底した古典落語至上主義ゆえに、新作落語を演じようとする弟子との確執が、いろいろと言われたり書かれたりしてきました。しかしこうした発言や、実際に新作落語上演をいくつも手がけた実績から判断するに、そんなに偏狭な考えの人ではなかったように思えます。
新作落語に対しては、演者に古典落語の素養があることを前提として、むしろ歓迎する立場だったのではないでしょうか。
試しに圓生師の言う「古典」を
「古い楽器や声楽のアプローチで演奏される、古い音楽」に、
また「新作」を「そうした古い楽器などを使って演奏される、現代の曲」
に、それぞれ置き換えてみたらどうでしょう。
昔の楽器の響きの良さ、あるいは昔の音楽の語法の良さが充分引き出されるものなら、例えそれが新しく作られたものであっても進んで上演するし、その逆に作曲家に対しては、そうした作品を書くことを望む・・こういうことになるのではないでしょうか。
これは突き詰めると、判断されるのは作品が古いか新しいかではなく、その質自体にある、という意志の表明です。
私も基本的には、これと同じ立場です。
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さて、2月最後の投稿となりました。
去年の3月初日にnoteを始めましたから、なんとか丸1年間続けることができました。
お読みいただいた皆様に、感謝を申し上げます。
これを機に、より記事の内容の専門性を増した形にして有料記事を増やしていくべきか、あるいは今まで通り「ゆるい」話題も挟みつつ続けていくか、かなり悩みどころです。
(そもそも週一投稿のペースを守れるのか、それすら自信がない・・)
自己紹介を兼ねた最初の記事を読み返してみると、
とあります。半分リハビリだったのですね。
そのリハビリの成果として、この一年で日本語を書くのに慣れたかというと、まだそうとは思えません。
けども確かに、このときの「軽いノリ」も、どこかしら残しておきたいような気がします。
いずれにしても、自分がいろいろ考えたことを書き連ねる場があることは、素直に嬉しいです。さらに、ここでの記事を読んでいただいたことをきっかけに、新たな出会いも生まれました。これも続けてきたからだと思います。
ですのでまあ、そこまで肩を張らずに、今後もこちらでの投稿を続けていきたいと思います。
最後は以前書いていたブログに倣って、締めたいと思います。
ひとまず、この1年間、
「ご訪問ありがとうございました」。
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