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「若い」ということ。―強い闇と、光が混在してた若さがどうしようもなく恋しくて

過去に浸って、センチメンタルになりたい夜もある。

あの時は ''若いから最強''なんて全く思ってなかった。
コンプレックスが強くて、怖いものだらけで、日々不安だらけで。
そうだったはずなのに、今はあの時が眩しく感じる。
私は今より、「若かった」のだと今は思う。

私は、今年24歳になる歳だ。
そんな年齢で、もう学生時代の若さが懐かしいなんて、早すぎるのだろうか。
でも大学1年生の頃と比べると、もう5年も経つのだ。
大学4年生の時からはほんの2年しか経ってないが、学生と社会人の違いはやはり大きい。

今の私も、後々「あの頃は若かった」なんて思うのだろうか。

強いコンプレックスを引きずって生きづらかった大学時代

大学時代は、毎日が楽しいとかでは決してなかった。
大学に行くのは憂鬱なことが多くて、2年生で入ったインカレのサークルにも馴染めなかった。
授業、バイト、サークル、その3つをうまくこなす周りの子達のようにはなれなかった。
色んなことが飛び交ってなんだかそれが私には目まぐるしくて、
大学と週3回のアルバイトに行くのがやっとだった。
そこで更に週2回のサークルと、更にそのあとの飲み会があるとなると、私はやりきれない。
疲れたら大学に行けなくなる。出欠は比較的他の大学に比べて厳しかった。

みんながしているような「大学生」には、私はなれない。
ずっと無力感が大きかった。
特に大学1年生の時は、4年間の中で精神的に1番不安定だった。
中学の時不登校だった私は、人1倍、10倍、コンプレックスが強かった。
自分の無力感や、コンプレックスや、「死にたい」という感情が消えなくて、生きるのがやっとだった。
大1の時は授業も途中から休みがちになった。

背が人より低くて、それをいじられることも多かった。
大人になった今はそんな人は基本的にいないけど、その年齢はそういうノリが多かった。
顔も童顔だったから、尚更子供っぽく見えることを、自分でもわかっていた。そのことと向き合いたくなかった。

背が低い=弱い下の立場のように感じた。
私の理想は、背の高いかっこ良い外見の女性だった。
自分の理想と、自分自身が大きく違うことが許せなかった。
外見だけじゃない、あの時は全ての現実が理想と違うことが、許せなかった。

自分の卑屈で傷つきやすい心、その割に怒っていることを表現できない自分。
自信が無い時は、人から見下されることが多いものだ。
あの頃はどこか弱気で、人から馬鹿にされることが多かった気がする。
それを笑って流せなくて、「だから自分は駄目なんだ」とそのたびに思って、また自分で自分の首を絞める日々だった。

あの頃キラキラしていた世界

それでも傍目には、普通の女の子だったと思う。
あの頃は特に、「普通」に見えることをすごく心がけていた。
人と違う過去を持つこと、内面ではボロボロなこと、知られたくなかったような気がする。
流行りのアッシュカラーの茶髪で髪を巻いた、海外好きで、友達と話す時は楽しくノリ良く話そうとする大学生だった。

好きなのはアリアナ・グランデ、セレーナ・ゴメス、あの時は海外ブームだった。そういう服を求めてForever21にもよく行ってた。

仲が良い友達と遊ぶ時は、決まって表参道に行った。
今ではもう慣れてしまった表参道も、
あの時は知らないお店が沢山で、ハイブランドのショップが立ち並び、なんだか全てがキラキラして見えた。

ちょっと裏道に入って洒落た飲食店を見つけた時は新鮮で嬉しくて、食べ物もお店の外観もわくわくしながら写真を撮った。そしてインスタに投稿したりした。
あの時はまだストーリー機能が無かったから、普通のいいねが付く投稿だ。

ハワイ、イギリス、カルフォルニア、フランス、モロッコ、トルコ、行きたい国も沢山あったし、全部行くのだと、未知の世界への期待は大きく、海外へはいつも心酔する気持ちを持っていた。
その景色に感動するに違いないと、素晴らしいことが待っているのだと信じてやまなかった。

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そう、あの頃の私はこの世に強く絶望すると共に、大きく期待していた。

自分自身にもそうだった。
無力感で絶望は深く、でも同時に、これから何にでもなれるような気もどこかしていた。

まだ自己理解が足りていなくて、自分の体や心や頭のキャパの限界をわかっていない。だからこそ沢山の可能性で満ち溢れていた。
それが若さなのかもしれない。

今も、私は社会的に見れば「まだまだ若い」と言われる年齢なのはわかっているけれど、今は自分のキャパを理解している。
そして今自分がどんな状態で、何が必要かなど、当時よりはきっとずっとわかっている。
だからこそ、可能性は無限ではないのだ。

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例えば、私はバックパッカーになることは出来ない、と思い知ったのは大学4年生の時だった。大4の夏に、バックパッカー旅でモロッコに行った。
その旅自体は刺激的で楽しく、卒業旅行でもバックパッカー旅でヨーロッパに行ったが、荷物が重い移動で足を痛めてしまった。
体調も崩しやすくて、自分はタフではないのだとやっと思い知ったのはその頃だった。
私は、無謀な旅よりも、快適で安全な旅が本当は好きなのだ。
そう認めざるをえなかった。
自由でかっこいいバックパッカーに憧れたけど、それは私には辛い挑戦になるのだ。
自分に合うスタイル、自分自身を理解すると、生きやすくなると同時に、可能性がひとつ減る。

でも、人間なんにでもなれるわけじゃない。
時間も体も有限で、できないことを認識して可能性をつぶしていくしかないんだろう。
それが大人になることなんだろう。
そのことに切なさを感じるのは、私がひとつ大人になったから、もしくは私がまだ「若い」からなのだろうか。

穏やかな白黒の世界と、
カラフルでコントラストの強い世界

今、私は社会人2年目だ。
新卒で入ったブラック企業を辞め、今は事務職として働いている。
幸せか、と聞かれると、まあまあかな、悪くはない、という感じ。

深い喜びも無いが、逆に深い絶望も無い。
日々にあまり波が無く、かなり穏やかなのだ。

大学生の時のように、「私って本当に駄目な人間だ…価値無い…」と意味も無く思いつめることも無い。
仕事も大体定時上がりで、ある程度余裕がある。
結局幸せかどうかは、心や時間の余裕で決まるところが大きいのかもしれない。
あとは信頼できる関係の人が、家族や外に何人かいればそれでいいような、最近はそんな気がする。

ただ、現実が思うように上手くいかないと、急に過去が恋しくなってしまう時がある。
あの頃私はたくさん悩んで絶望していたのに、同時に多幸感もあったような気がする。まるでドラッグをしているかのように。
それらの浮き沈みが激しくて、常に翻弄されていた。
穏やかな気持ちの時は果たしてあったのか、あまり覚えていない。
いつも苦しいか、一時的に楽しいかのどちらかだった。


私が酷く好きで焦がれていたもの。
ハリーポッター、イギリス、アリアナ・グランデ、Zedd、洋楽全般、チーズ料理、ファッション、おしゃれなお店、そして当時大好きだった人。
これらは今もほとんど好きだけど、あの頃の好きとはどこか違うのだ。
心酔するような感じではなくて、もっと落ち着いていて穏やかなのだ。

平坦で、穏やかで、なんとなく白黒な日々。
光と闇のコントラストが強かった、カラフルな時間。
今より苦しかったのに、生きづらかったのに、沢山泣いていたのに、
あの頃がどうしても眩しい。

表参道がキラキラして見えた新鮮な感覚が、たまらなく恋しい。
海外へ行くことも、どこか慣れてしまった。もう最初のような新鮮な感動は、味わうことは無いような気がする。
そして嫌なことがあったら、いつだって逃げ出せる自由さ。
その自由な感じが、好きだった。

まだ、本当は子どもでいたい。

私はもうすぐ、24歳になる。


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