『献灯使/多和田葉子(講談社)』を読んだ感想。
献灯使
無名の方が義郎より、年寄りに思えた。
駄洒落や漢字の使い方など、特に「面白くない」とも思わなかったけど、よく分からないところや、作家の筆が乗りすぎていて読者を置き去りにしているように感じられるところがあり、自分も気をつけなければなと思った。
孫の飛面の、義郎が「子孫に財産や知恵を与えてやろうなどというのは自分の傲慢に過ぎなかった」と思う話は納得できるような、出来ないような感じだった。
(世の中の仕組みがガラッと変わったように見えても、結局変わらないこともあるからだ。)
コウモリのミルクは危険なのでは?と思ってしまった。
子どもの頃は今よりもっと季節や気温の変化に敏感で、しんどかったことを思い出した。
風刺として読むには軽やか過ぎて、ユーモア?として読むには深刻すぎた。
無名が曾おじいちゃんを睡蓮ちゃんに紹介した時、「曾おじいちゃん」と言わなかったのが不思議だった。(「これが義郎です。よろしく(P.124)」 )
「無名は膝のところから内側に曲がってしまう鳥のような脚を一歩ごとに外側にひらくように前進する。(P.125 )」と読んで、無名はX脚なのかと思った。
夜那谷先生の、「(前略)子供たちはそれぞれ勝手にくねくねしていればいい。自由にじゃれ合いながら、自分に必要な種類の体力だけをつけていけばいい。(P.129)」には、全く同感である。
私は車椅子に乗ったことがないので、乗る時は無名一人で乗れるのに、ひっくり返ると自分では乗れないのがよく分からなかった。(乗る時も助けがいると思っていたので。)
高級くるみ料理専門店の窓のない個室は、映画やテレビで見る中華料理店みたいなものを想像してしまった。
くるみみたいな固いものを無名は食べられるんだろうか?
睡蓮ちゃんの方が早く車椅子に乗ってたけど、彼女も死んでしまったんだろうか?
無名が インドのマドラスに行った話が読みたかった。
志半ばで倒れるところが遣唐使にかけてあるのかも知れないけど。
韋駄天どこまでも
これも、不思議なお話だった。
太字にされた漢字が気になって仕方なかったけど。
読んでから繋げてみたかったので、してみたけど、さっぱり分からなかった。
(趣味味未口走取道首導道品山癌草早牙苗田月田田月胃穏急就京犬驚馬駄騒験馬騎店占壁土辟日白血皿百皿衆碾展石全然全然然火燃炎)
夫の生まれ育った家を見に行く前に、なるべく近いホテルを予約しておけばよかったのにと思ってしまった。
「何でもうんうんと聞いてくれる夫がいれば、面倒な友達づきあいなどしなくても孤独の虫にも孤独の狐にも襲われることなく人生最後まで無事たどり着けるだろうなどと気楽に考えて、人付き合いを億劫がっていたが、(P.168)」というところを読んで、なるほどと思ったけど、夫が胃癌にかかってしまったのは、そのストレスかも知れないなどと思ってしまった。
タイトルが韋駄天なのに、校庭を走り続けているし…。
不死の島
蛆は成長して蠅になるのか調べたくなってしまった。
フェルナン・メンデス・ピントにモデルがいるのかも。
「献灯使」で描かれた日本の話かな?と思ったけど、日本政府が発行したパスポートがまだ使えるようなので、それより前の話?
P.197に、「新たに壊れた四つの原子炉からは何も漏れていないと政府は発表したが、何しろ民営化された政府の言うことなので信用していいのかどうか分からない。」とあったけど、私は今の選挙で選ばれた政府に対して、もうずいぶん長いこと、同じような気持ちを抱いているので、この世界の政府がどんなにあやしいものか、P.194で、「総理大臣が姿を消してから、混乱期を経て、二〇一五年、日本政府は民営化され、Zグループと名乗る一団が株を買い占めて政府を会社として運営し始めた。」と書かれていても、全く同意できなかった。
彼岸
井の頭公園で高校生たちが食べていた逢い引きアイスが気になって仕方なかった。
新聞/新聞記者を美化しすぎなんじゃないの?と思ってしまった。
新聞記者にも、いろんな人達がいるだろうけど。
瀬出は長年下半身に悩みを抱えていたらしいけど、先に、「献灯使」を読んだ影響で、ややこしかった。
韓国は、恨が強いと聞いたことがあったので、中国より、朝鮮連邦への移住の方が、一度でも国を侮辱した発言をした人には危険な気がしたけど、どうなんだろう。
「英語の発音が全くできない(P.219)」からといって、「中国語の正しい発音をこれから習うことなど全く無理だろう(同)」とは思わないけど、これから若い美女と結婚する夢想を抱くなんて、あつかましいおっさんだなと思った。
こちらは難民受け入れだけど、「献灯使」の沖縄への移住を思い出してしまった。(義郎の娘、天南が夫婦で移住して、「(果樹園に)閉じ込められて働く生活は意外につらいのではないか。(P.72)」)と、義郎と中学時代の同級生に考えられていたシーンを思い出してしまった。)
動物たちのバベル
突然始まってびっくりしたけど、これがこの物語の終焉?
(初出は、『献灯使(「群像 (2014年8月号)」)』より、こちらの方が早い。(「すばる 2013年8月号」
第一刷発行年の前のページに書いてあった。
他の収録作品は、『韋駄天どこまでも(群像 2014年2月号)』、『不死の島『それでも三月は、また』』(講談社、2012年))、『彼岸(早稲田文学 2014年秋号)』と書いてあったけど。)
第二幕、リスの、「正直言うと、わたしの小さなお腹も同じことを言っている。専門家と違って、わたしのお腹はわたしを裏切ったことがない。(P.238)」が面白かった。
P.240で、イヌが言ってたドキュメンタリー映画、「ホームレスの犬たちが巨大な網で捕まえられて、トラックの檻に入れられて、工場跡に輸送され、次々銃殺される映画」は実在するのか気になった。
(私は、怖くて見れそうにないけど。)
第三幕、イヌが夢で見た巨大な「辞書であると同時に一つの町(P.255)」を見てみたいなと思った。
?P.257、リスのいう翻訳者は、「自分の利益を忘れ、みんなの考えを集め、その際生まれる不調和を一つの曲に作曲し、注釈をつけ、赤い糸を捜し、共通する願いに名前を与える」そうだけど、作曲家が混じってる気がして、分かりにくかった。
辞書であると同時に一つの町も、最初ちょっと分かりにくかったけど、現実的な話の中に、急に、詩的な話が出て来たような気がして。
こちらは、何回か読んでも引っかかってしまう。
個人的には、あとがき(説明ではない)が欲しい気もしたけど、このままでもいいような気もした。
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