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「スイッチを切らずに」と私はつぶやく。「スイッチを切らないで」と私は思う。

 正面の急なのぼり階段の中ほどには竜宮城の入り口を模したような門があった。下半身が太い特徴のある土偶のようにもったりとした門だった。白く太い足が蟹股で開かれ、その上に小さな赤い色の体が乗っかり、黒い髪の毛の屋根がついていた。階段はその股の間をくぐり右、左と折れ、上へと続いていた。

 門へと進む階段の他には左側にそれを回避するように細い階段が続いていた。その道は真正面の階段を迂回するようにした後、ゆったりと右側に曲がり視界から消えていた。

 私は後ろを振り返った。後ろには私の立っている場所から入り口の緑色の鳥居まで真っ直ぐに見渡すことができた。両脇の店に「動き」はなかったし、私を尾けてくるようなものもいなかった。それはとても静かな風景だった。静謐といったほうが正しいかもしれない。時間が止まっているようだったが、時間は進んでいた。微風が吹き、落ち葉が僅かに舞った。その音すらも聞こえそうなほどだった。私は何故か私の家の居間から見る風景を見ていた。私は畳に手をつき、女が洗濯物を干すのを眺めていた。気持ちの良い春の日だ。洗濯物は私のものがほとんどだったが、女のものを少し混じっていた。特に印象的な風景ではない。何故、今思い出しているのか見当もつかなかった。女が振り返って私に何かを言ったのだが、それを思い出すことができなかった。確かに女は私にその時、何かを言ったのだ。私の中で回る映像の中で女の顔は黒で塗りつぶされていた。やがて壊れた映写機のように女が振り返る部分だけが繰り返し再生された。私は振り向くのをやめて、細い迂回路を選択し、歩を進めた。映像は私の頭の中で流れ続けていた。あの時、女は何を言ったのだろうかと私は考え続けていた。何か、とても重要で致命的なことだったような気がしていた。しかし、私はそれを思い出すことがついに出来なかった。映像は繰り返し再生され続けたため、擦り切れ、やがては熱を持ってフィルムを焼いてしまった。写真の端のほうから炎が上がり、炎は女の姿を歪めさせ、やがてはスクリーン全体を焼き切ってしまった。

 いつの間にか辺りは薄明るくなっていた。青みがかった灰色で薄く染めつけられたように全てが覆い尽くされている。夜が終わったようだったが、太陽の姿はどこにもなかった。朝か、昼か、夕かの区別もつかなかった。

 行く道の脇に立ち並ぶ松並木の間からは海や、沿岸の街や道を見渡すことが出来たが、そこには相変わらず、人の営みのようなものは感じられなかった。私以外の人物がこの世から忽然と消失してしまったかのようだった。あるいは、私だけが消えてしまったのかも知れない。どちらにしても私には不都合がなかった。寧ろ都合がいいほどだった。私は道の途中にある岩に腰掛けて街と海を見ながら時間をかけて煙草を一本吸った。時間はいくらでもありそうだった。それは引き伸ばされた猶予のような時間だった。私はため息をついた。腸のように長い坑道のそのまた最奥から引きずり出したような長いため息だ。私は手のひらをじっくりと眺めてはそれをひっくり返してまたじっと眺めるといた行為をゆっくりと繰り返した。私の手には救い難く多くの血が染み込んでいるようだった。血だけじゃない、肉や、悲鳴や、諦めや、魂そのものや何かも。私の行く道は血塗られていた。私の後ろには物言わぬ人々がじっと列を作って並んでいる。今更止めることもできない。何よりと私は思う。私は止めようとも思わない。資格があり、役割がある。やり遂げなくてはならないのだ。

「スイッチを切らずに」と私はつぶやく。「スイッチを切らないで」と私は思う。表情のない空は何も言わなかった。彼らもここには干渉できないのかもしれない。私は立ち上がり、再び歩き出した。

 道はやがて江島神社へと到達した。私はそこを素通りして先に進んだ。しばらく平坦な道が続いた後、再び、道は上り階段となった。階段は先までのものとは違い、幅も十分にあるしっかりとしたものだった。階段や道の両脇には再び店が立ち並んでいた。二つ階段の踊り場を過ぎ、道が再び平坦となったところで、道の左側の店が開いているのに気がついた。店頭に提灯が掲げられ、その中には火が灯っている。私は残り3段ほどの階段を上がり、その店前まで歩き、立ち止まった。

 その店は周囲の店と外見は変わったところがなかった。簡素な木造の平屋だ。店頭の提灯には見たことのない家紋と屋号が染め抜かれていた。格子に入り逆さになった蝶の一対だった。入り口の格子がはまったガラス戸は左右に引かれていた。空いたガラス戸の前には紺色の暖簾が掛かり、中から吹いてきた風で少し揺れていた。暖簾の所為で入り口から中を見渡すことはできなかった。 

 私はしばらく店の前で立っていると、中から音がした。コツという陶器が触れ有ったような小さな音だった。その音を合図のように私は身を屈めて暖簾をくぐり、ゆっくりと中に入った。

 店の中は何もなかった。商品も並んでおらず、椅子も会計場も何もなかった。ただ、冷たいセメントの灰色の床が一面に広がっているだけだった。

 店の奥には「上がり」があり、そこは6畳ほどの畳敷きになっているようだった。「上がり」には丸いちゃぶ台が置かれ、向かい合って二つの湯のみが置かれていた。黒い着物を着た女はちゃぶ台の左側に座り、その左腕を窓枠にかけ、そこから見える海の彼方を眺めていた。

女は振り返り私に言った。

「どうぞ、そちらにお座りください」 


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