〈耳の哲学〉『存在と睡眠』
ある高齢者施設のドキュメンタリーで、ソファに眠ったまま静かに亡くなっていく男性の最期を見た。それは〈老衰〉であり、ひとつの〈オンガク〉の終わりである。カメラはまるで自然の風景を眺めるように、その〈死の瞬間〉を定点で静かに捉えていた。周囲のスタッフさんにとっては日常の風景なのだろう、彼らはまったく慌てていない。同じ部屋で思い思いに過ごす高齢者たちには事態が正しく認知できない人もいるのだろう。やはり特別に驚いた様子もなく、みんなで静かにお別れを告げている。高齢者たちが暮らすその施設は民家のような〈普通の部屋〉で、とても穏やかで透明な時間が流れていた。眠るように〈生のオンガク〉が終わり、静かな余韻が残った。
睡眠時間の先には究極的には〈死〉が待っている。生まれたての赤ちゃんが眠くなると泣いてしまうのは、死の淵に引っ張られるような〈不安〉にかられるからだときいたことがある。その〈不安〉こそ、ハイデガーが『存在と時間』で提示したあの〈不安〉なのかもしれない。ハイデガーはきっと子どもの記憶を持ち続けていた哲学者だ。
〈限りある人生〉にも関わらず、人間にはなぜか何時間もの〈睡眠〉が必要だ。この〈進化〉は住環境が大きく関わってきたのか、ヒトはなぜ〈眠ること〉を前提に進化したのか理由が知りたい(理由はなく偶然なのだろうけれど)。ただ物理的に考えれば、数時間の睡眠から目覚めた時には誰でも少し年を取っている。〈疲れが取れた〉としても〈風邪が治った〉としても〈お肌の調子がよくなった〉としても、これは老いも若きも変わらない事実である。眠る前の、数時間前の〈私〉はもういないのだ。眠るたびに〈死の瞬間〉に向かっているのである。
若い世代がもてはやしている〈ショートスリーパー〉は〈眠る時間〉を少なくできる人のことだ。〈眠る時間が少ない〉とはつまり〈起きている時間が長い〉、もっといえば〈活動時間が長い〉ということだろうか。Youtubeをみているだけ、ゲームをしているだけでも、〈眠らない〉だけで生産性が高い印象もあるのだろう。もっといえば〈生きている時間〉が長いように錯覚するのかもしれない。
しかし実は、睡眠時間を削ると〈寿命が短くなる〉という学説もある。つまり〈生きている時間〉を長く確保するほどに〈死ぬ瞬間〉が向こうから近づいてくる。これはいったいどういうことだろう。一方では〈眠れない時間〉を悩む人たちもいる。〈眠らない〉ではなく〈眠れない〉時間もまた同じ時間ではなるが、当事者にとっては切実な問題である。
睡眠は〈量より質〉こそ大事と説く人もいる。〈睡眠〉とは〈時間〉であり、その時間は〈起きている時間〉の延長であるにもかかわらず、目を閉じた途端に人生の質を左右するような〈大事な時間〉に変る。たとえばその時間のほとんどが〈夢〉だったとしても、〈眠った気がしなかった〉にしてもである。
もうすぐ90歳の父は、最近めっきり〈うたた寝〉をする時間が増えた。特に具合が悪いわけではなく、身体がだんだんと〈死の瞬間〉に近づいているサインなのだろうと思っている。ソファで横になっている姿を見かけると、冒頭の高齢者施設の映像が頭を過ってつい声をかけてしまう。このまま眠らせておいたら、あちらの世界に行ってしまいそうな寝顔だからだ。
しかし私は、なぜ声をかけてしまうのだろう。起こしてしまうのだろうかと思う。〈起きている時間〉を〈生きている時間〉だと思っているからに他ならない。しかしそれは、〈父のオンガク〉の邪魔をしているだけではないかとも思う。もっと言えば、神様でもないのに〈自然の時間〉に介入しようとしているようで悶々とする。すやすやと眠っている赤ちゃんを無理やり起こそうとはしないのに。
冒頭のスタッフさんのように、身近に迫る肉親の〈存在と睡眠〉を平常心で受け止められるようになれるだろうか。まだそこには〈不安〉しかない。