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〈雑感〉リーズ国際ピアノコンクール

 イギリス北部のリーズ市で3年に1度開催される〈リーズ国際ピアノコンクール〉をYouTubeで視聴しました。若いピアニストたちは時代を反映したクラシック音楽の原石であり未来です。そのオンガクが会場の環境に左右されることなく、画面からダイレクトに伝わる国際コンクールのYoutubeライブ配信視聴は、コロナ禍以降の個人的な楽しみのひとつとなっています。
 傑出した才能を求めて、ピアニストや音楽に順位をつけるコンクールそのものには自身の子ども時代の経験から否定的な立場でした。それが長くクラシックから遠ざかってしまった最大の理由です。しかし2021年のコロナ禍で開催されたショパン国際ピアノコンクールを1次予選からほぼ全演奏視聴して、30年近く固く閉ざしていた〈心の耳〉が開いていくのを感じました。ショパンの音楽のみならず、何よりも若いピアニストたち、コンクール運営スタッフのオープンな態度に救われたというか。クリストファー・スモールの〈ミュージッキング〉の視点が登場したことで、権威主義だった欧州のクラシック音楽界そのものがアップデートしていることを肌で感じることができました。それは今回のリーズでも同じです。自身に刷り込まれたコンクールの感覚は半世紀前の〈昭和の日本〉なのだと自覚しました。
 さらに〈サウンドスケープ〉を〈場の関係性〉と捉え直すと、コンクールを俯瞰したウォッチングは、音楽をひらいた〈地域創生〉の〈アートプロジェクト〉としてもとても興味深いのです。

 国際コンクールはお国柄・土地柄がよくでるものだと思います。例えば一昨年の米・クライバーンでは順位と賞金がセットでショーアップされていましたが、今回のリーズ国際ピアノコンクールは予選会場となったリーズ大学を中心に、イギリス地方都市らしい慎ましやかで機知に富む素敵な〈音楽祭〉でした。大学施設やショッピングセンターの活かし方、ピアノ音楽のひらき方には、世界で活躍するピアニストを多数輩出している日本でも可能となりそうな〈ピアノ音楽祭〉の新しいかたちを感じました。会場を訪れる観客には普段着の高齢者が目立ち、ショッピングセンターの特設会場では若者が集いジャズも演奏されている。街の日常と響き合うコンクールです。印象的だったのは、野外の各所に展示された古いピアノを再利用したPianodromeが手掛けるアートでした。大胆にリメイクされたピアノはいずれ廃棄される〈モノ〉でもある。必要以上に権威にせず、リスペクトをもってピアノを街にひらき、子どもたちにも親しみを持ってもらおうとする試みだと語られていました。一部の人に閉じた印象のあるピアノ・コンクールに美術の視点が入ることで、結果的に違う角度からオンガクが街にひらかれていくのです。
 さらに今回は〈ダイバーシティ・多様性/ジェンダーバランス〉の観点から、女性作曲家の作品が取り上げられたことが運営側から何度も強調されていました。中でも日本から出場した人気ピアニスト牛田智大さんは、アメリカの作曲家Amy Beach、イギリスの現代作曲家Kate Whitelyを好演、さらに日本の作曲家・吉松隆作品も取り入れ、リストやシューベルトの大曲を含む二次予選、三次予選ともに魅力的なプログラムで見事に聴衆賞を受賞しました。注目度の高いピアニストによって、認知度が高くない作曲家や作品に光が当てられることの意義も感じました。
 既にプロの世界線にあった牛田さんは惜しくもファイナルには出場しませんでしたが、演奏者紹介の時から〈何枚もCDを出している有名ピアニスト〉として紹介されていたので、ファイナル5名枠は名もなき原石たちに道を譲ったかたちになったと思います。予選から好演だったRyan Zhuも通過しませんでしが、最後に個人賞が授与されていました。今回のようにピアニストが粒ぞろいのコンクールほど当然ですが結果は厳しくなります。
 自国の出場者には、ついオリンピック選手のように〈賞〉を期待して応援してしまうものですが、ピアニストはアスリートではありません。音楽はスポーツではなく芸術です。そもそも主催者側が、ファイナルの〈順位〉は祝祭の演出のように捉えていたと思うのは、3次予選から組み込まれた伴奏を含む室内楽のコミュニケーション力、何よりファイナルの選曲に〈運〉や〈偶然性〉が加えられていたからです。予選段階から器の大きな演奏で優勝候補とも思えた台湾のKai-Min Changは、ファイナルの課題が8月から準備したというベートーヴェンをほとんど初演で演奏する試練となりました。しかし本人の晴れやかな笑顔からは、仲間たちと共に〈音楽する〉喜びが勝っていたことが伺えました。
 もうひとつ特筆すべきなのは、ラフマニノフ4番を見事なコミュニケーション力で弾ききった中国のJunyan Chen、そしてベトナム初出場で3位となったKhan Nh-Luong、ふたりのアジア人女性ピアニストです。ジェンダーバランスの配慮という文脈ではなく、本当に素晴らしい演奏でした。Junyanに関しては、ファイナルだけの判断ならば優勝でもおかしくなかった。反対にNh-Luongのプロコフィエフはもう少し疾走感が欲しかったですが、予選が素晴らしかった。一生ピアノを弾いていく人だと直観できる深い音楽性が滲み出ていました。
 個人的には5位のJulian Treveleyanのオンガクに21世紀のピアニスト像を感じました。近現代作品と響き合う音質や音楽性、そのキャラクターはこれからクラシック音楽の新しい扉を開いていくかもしれません。あとはファイナルに残らなかった前述のRyan Zhuも良いピアニストでした。実は1位のJaeden Izil-Dzurkoと頭の中の5名枠で迷いましたが、結果的にはクラシック王道&伝統を保守した安定のブラームスが優勝しました。Dzurkoの硬質な音と不思議な伸びやかさ、時おり感じる爆発力には、この先に〈名演〉を残すクラシック演奏家のポテンシャルを感じました。

 余談ですが、自身の楽器がピアノということもあり、コンクール動画の〈音〉にはどうしても演奏力や音楽性の〈情報〉をきいてしまいます。10代半ばまでピアノが自分の〈第一言語〉だったからか、実は日本語よりも〈ピアノ言語〉の方が聞き取れると実感します。本来ならば会場の〈サウンドスケープ〉も含めてオンガクを楽しむ場だとも思いますし、いわゆるヴィルトーゾを求めた〈優生思想〉でもありません。しかし流し聞きのYoutubeでも、予選の時から不思議と〈耳に留まる〉演奏があり、名前をメモした人たちはほぼファイナルに残りました。なぜ心を捉える音や演奏があるのだろう。それは前回のショパンコンクールの時にも思いましたし、今ちょうど審査員世代と年齢が近いからかもしれません。審査結果には、さまざまな意見が飛び交うのがコンクールの宿命です。しかし〈最終順位〉ではなく、ファイナルに残った5名、そして個人賞を与えられたピアニストたちには、選ばれる確かな理由があったと思います。
 その〈理由〉は技術の優劣とも違う。技術だけの競い合いならば、ピアニストは既にスポーツ選手の仲間入りです。オンガクという〈非言語領域〉を伝えるための言語力があるか否か。それが〈音〉そのものに情報として載っているか否か。心身の関係性が調和しているか。〈音に魂を込める〉という言い方に代えてもいいのかもしれませんが、それは〈自分の感情を込める〉ともまた少し違う。だからと言って、ピアニストは楽曲を解釈して再現するだけのロボットとも違うのです。
 クラシック音楽は西洋文化・西洋言語なので、実は西洋哲学の学習は必要不可欠です。〈私〉とは何か。作曲家・楽曲・ピアノ・調律師・観客・審査員・運営スタッフ・ホール空間という〈他者〉や〈環境〉に対して、〈ピアノを弾く私〉の在処をどうするか。実はここがとても重要です。心を込めればオンガクが伝わると考えがちなのは、この国にはひとつの言語しかないからです。しかし、例えば英語では日本語の感情が上手く伝わらない場合が多々あるように、音楽でも同じことが起こり得ます。〈自己と他者〉という西洋的な感覚や関係性の築き方を学ぶ必要がある。実はそれが、日本が〈MUSIC〉から哲学を外して〈音楽〉と訳し、演奏技術だけを輸入してしまった明治以降の音楽教育の最大の問題点でもあるのでした。
 国境や文化を越えた、もう少し高いところにある〈私〉とは何か。人間が長い歴史の中で考えてきた〈自己〉や〈存在〉をめぐる哲学は、西洋/非西洋を問わず普遍の世界につながります。そして未だに〈正解〉はありません。しかし音楽言語を通して考えてみると、〈この私〉と〈オンガク〉の関係性そのものがコペルニクス的転回を可能にするかもしれません。

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