みどりのゆび日記②~薔薇の花とは何か
薔薇を育て始めて気づいたのは、薔薇にとって「花や実をつける」行為は非常に体力を消耗するということだ。寿命を終えた花をいつまでもつけていると、そこから全体が病気になってしまうこともあるという。
薔薇の世話をしていると、花が咲いたらなるべく長く楽しみたいと思う。しかしどこかで潔く、花に別れを告げる時期も大切になってくる。特に四季咲きは春の花の時期を謳歌していると、次の花芽が育たない。ご近所の薔薇名人のフェンスを観察すると盛りが過ぎた途端に未練なく切り戻している。それは次にまた花を楽しむため。場合によっては全体をもっと大きく育てるために、「蕾」の段階で剪定する場合もあるという。私はさすがにそれは出来ずに、せっかくついた蕾は花を少しでも楽しんでから切り戻している。株全体は花を楽しみながら、ゆっくり育てばいい。
薔薇の育て方は西洋的な人間中心主義の産物と言っても良い。そこまでは言い過ぎとしても、人の手を必要とする花なのである。それはつまりとても「芸術」に近い。
最近の新しい薔薇には必ず人の手(品種改良)が入っている。父の花壇で毎年咲いている薄紫色の30年ものは、毎年一輪だけ大輪の花を咲かせていたがすぐに散ってしまう。今年は冬の剪定や世話を念入りにしたら春に五輪もの花を一度に咲かせたが、その後は葉っぱがすべて落ち丸裸になってしまった。慌てて追肥をすると先にまた新たな葉っぱとつぼみを付け始めた。そして気づくと、30年間頑張っていた最初の株は枯れてしまっていた。
本当に「花を咲かせること」は薔薇にとって命がけのイベントなのだなと思う。反対に最近の品種改良された薔薇は強く、花の寿命も長くなっている気がする。
春先に庭の隅っこの茂みの中で、小さな赤い薔薇が咲いているのを発見した。もう20年以上も前に、父が線路沿いの「野ばら(たぶん園芸種の飛来)」を少しだけ持ち帰り、試しに庭に植えたまますっかり忘れられた薔薇だった。もともと線路沿いで放っておかれても見事に咲き誇るほどの生命力をもつ強い薔薇が、毎年茂みの中で人知れず花を咲かせていたのだと思うと申し訳なかった思いがする。しかも線路沿いの薔薇は、いつの間にか全部刈り取られてしまった。最近は環境保全や植物保護よりも人間の安全性を先回りした剪定が目立つ。公園や神社の見事な桜の木が「台風で倒れる前に」、根元から無慈悲に伐採されている。大樹の生命に対する畏れを無くした社会は文字通り殺伐としている。
話を戻すと、その隅っこの薔薇を、路面側のフェンスの間から手を入れて外に引っ張り出してみた。するとしばらくは、小さく可憐な赤い花を次々と咲かせてくれたのだった。
ところが今日みると、いちばん花を咲かせていた元枝はすっかり枯れてしまっていた。もしかしたら、久しぶりに日を浴びて花を咲かせることで、体力を使い果たしてしまったのかもしれない。住み慣れた薄暗い茂みの中から引っ張り出されたことで寿命を縮めてしまったとしたら、とても申し訳ないことをしたなと思う。
しかしフェンスの間からよく見ると、根元からは新しいシュートが伸びて新緑をたくさんつけていた。一代目の命は確実に次の代へと受け継がれ、フェンスの外へと勢いよく伸び始めている。私自身も20年以上前にみた線路沿いの見事な赤い薔薇の風景を覚えているので、あの生命力を信じてみようと思う。
人間ありきの薔薇の花、とは何だろう。生命の花、と言うべきか。