アキと、俺と、わたしたちの話。『夜が明ける』
読みながら苦しくて、苦しくて、でも途中でやめることができなくて、一気に読んでしまった『夜が明ける』。
昭和終盤に生まれ、「女の子なんだから」「長女なんだから」を皮切りに、さまざまな“昭和”の価値観の中で育った私は、最近になって「あっ、これって変なことだったんだ」と気づくことがある。
小学生の頃、「一重はかわいくないから」と母にアイプチをされていた時期がある、とか。(まぶたがひっぱられて痛くて、いやだったなぁ)
同じことをされている少女のニュースを読んで「あっ、わたしと同じだ」と共感し、その母親が糾弾されていることに驚いた。
「そうか、やっぱり変だったんだ。いやだ、やめてって言ってもよかったんだ」と。
そんな子どもだった頃のわたしや、同じクラスだったあの子や、あの子たちを思い出して、胸がギュッと締め付けられる。
『夜が明ける』は、フィンランドの俳優、アキ・マケライネンにそっくりな“アキ”こと深沢暁と「俺」の2つの視点で物語が進んでいく。
高校生にして191㎝の身長があり、10代らしい“溌溂さ”が皆無のアキ。
母子家庭に生まれ、母親からはネグレクト、暴力を受け、(法律で定められた)18歳まで施設と家とを行ったり来たりしていたアキ。
家庭環境に加えて、吃音やその風貌がよくも悪くも注目を集め、簡単ではない子ども時代を過ごしたであろうことが、容易に想像できるアキ。
拒絶された経験がある人にとって、人間と対峙することは恐怖だ。
それでも、どこかに居場所がほしくて、だれかに「あなたが必要だ」と認めてほしくて、枯渇している。
「マケライネンになりたい」アキを受け入れてくれた劇団は、「みんな家族」と言ってくれた主宰者は、ずっとアキがほしかったものを与え、スキマだらけだった心を満たしてくれたのではないか。
そう回顧する「俺」は、アキをおそらく初めて“人気者”に引き上げた存在だったのだろう。
「俺」の人生も、順風満帆とは言い難い。
16歳で父を自死で亡くし、奨学金で大学へ進学。
学生時代は奨学金を返済するため、ひたすらアルバイトに明け暮れた。
卒業後は小さな制作会社に就職し、ADとしてこき使われながら(AD経験がある知人に、この時代は本当に酷かったと聞いたことがある)安月給の中から奨学金を返済し続ける日々。
過度な疲労やストレスに、タレントや俳優によるセクハラ、ストーカー行為が重なり(イヤだと言えない力関係)、胃腸炎とうつ病を引き起こした。
アキと「俺」の同級生の「遠峰」も気になる存在だ。
遠峰の家は母親が出て行ってしまい、父親と2つ弟の3人暮らし。
家事は遠峰が引き受け、左手に障がいがある父親を助けながら、家計の足しにするためにガソリンスタンドでアルバイトをしている。
3人は3様に年齢を重ねた。
迷路のような道を何度も何度も行き来しながら。
きっと「なんで自分は生きているんだろう?」と自問自答を繰り返しながら。
ニュースでも時折、「子どもの貧困」「奨学金返済の闇」が取り上げられる。
わたしの家も母子家庭で、父親は決められた養育費を支払えず、「お金がないから」という理由で高校受験は公立1本で勝負せざるを得なかった。
大学進学をあきらめたことで学歴差別を受けたこともあったけれど、奨学金で進学をしていたら返済に追われて相当苦しんだだろう。
令和のこの時代にも、アキや、俺や、遠峰が、きっとたくさんいる。
遠峰のこの言葉が、本当に痛かった。
わたし自身も被害者のような気持ちで読んでいたけれど、立派な“加害者”ではないかと。
だれが悪いとかではなく、苦しいときに「助けてください」と言える社会であってほしい。
授業中に「教科書忘れちゃったから見せて」と言えるくらいの感覚で。
同じような想いを、もうだれにもしてほしくない。