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怖いほど強い"念"の話。

◾︎"念"

大人になってから、自分の"念"が怖くなった。

以前も書いたかもしれないけど、私は相当強い念の持ち主らしい。

いや、私の念なのか、相手の日頃の行いの悪さがそうさせたのか、ハッキリした理由はわからないけど。

何故か私に対して理不尽な怒りや見当違いの攻撃を仕掛けた人間が次々と淘汰されていく様を、この人生で幾度となく見守ってきた。

もはや、偶然とは思えない"何か"が、確かに作用している。

正直、この話は書くのも怖いくらいだ。



●攻撃されやすいタイプ

私はおそらく、攻撃されやすいタイプだ。

初めて会う人間も、一緒に働く人間も、
私の要領の悪さや理解力のなさ、仕事の進め方、あるいは話し方や流されやすそうな性格、それとも存在そのものに苛立ちを覚えるのか、様々な攻撃を仕掛けてくる。

暴言や理不尽な叱責、時には職場を追われた事もあった。


過去に浴びせられた暴言については、ここでも散々触れてきたが、その他にも人生において攻撃を受けた様々な事例がある。

過去のとある職場では、
主任だった私のやり方が気に食わず、ことあるごとに突っかかってきた年上の女性がいた。


また、ある職場を自主退職した後、
「あいつはクビにした」などと虚偽の情報を触れ回る者もいた。

わざわざ、転職先の店舗に客として訪れ、私に聞こえるように大声で「クビにした」と話すなど、そこまで私を貶めようとする底意地の悪さにはゾッとしたものだ。

ちなみに彼は、特にプライベートで仲良くしていたわけでも、本心を打ち明けられるような間柄でもない"ただの上司"だった。


ある職場では、理不尽な解雇もあった。

理由は、オーナーの気まぐれだった。

もちろんどの場合も、私が危害を加えたわけではない。

何もしていなくても、何故か勝手に目の敵にされる。

もしかして、第三者から見れば明らかな理由があるのかも知れないが、私は知らない。

あったとしても、上司として、同僚として、指摘すれば良いものを、何故か"そこはすっ飛ばして"攻撃"に出てしまう相手の方に問題がないとも言えない。

初対面でうっすらと「合わないなぁ」「合わないだろうなぁ」と思う人間ほど、"こう"だった。

だからといって、極端に避けたり、特に反撃をした事もない。

わかってもらう事も望んでなかった。

何が悪かったのか、理由もわからないので、今も反省のしようがない。


どちらかと言えば、
人付き合いにおいては被害者意識の強いタイプで、彼らと関わりがあった頃は特に、顕著に表に出していたと思うので、何となくそれかなぁ?と言う程度。

でも、若い頃なんてみんなメンヘラの厨二病のポエマーで、悲劇のヒロインだったでしょう?

嫌煙される、程度のことはあったとしても、攻撃される意味はわからない。

相手だけが完全に悪だとは思わない。
自分にもきっと悪い部分はあったけど、少なくとも私は、理不尽な理由で彼らに強い言葉を使ったり、攻撃した覚えはないのだ。

…まぁ、なんだか色々調子に乗ったり、血の気が多かった時もあるし、人によっては私の言葉に傷ついたりもしたかも知れないけど。


とにかく、何故かものすごく嫌われる事がある、
だから、そういう人種には近づかないように注意を払って生きてきた。


彼らを思い出す度に、
苛立ちや胸の痛みが無意識に蘇ってくる。

こんな奴らがこれからものうのうと幸せであってたまるか!そう思った事も正直ある。

恨む、とは少し違うけど、少なくとも相手の幸せを願ってやれるほどの器は持ち合わせていないので、心の中で何度も悪態をついては溜飲を下げるのだが、完全に心の中から消す事はできない。

年数を経て、やっとその記憶も薄れた頃に、なぜか"それ"はやってくるのだ。


●強大な負のパワー

最近、彼らに共通点がある事を知った。

彼らは何故か、みんな、不幸なのだ。

実は自らが借金を抱えていたり、
ネズミ講紛いのビジネスに手を染めて回収に躍起になっていたり、パートナーから暴力を受けていたり、家庭において自分の立場が弱かったり。

職場で嫌われている人間もいた。
経営がうまくいってない人間もいた。

それがわかるのはいつも、時が経ってから。
蓋を開けてみれば…と言った感じだ。

狭い世界の話だ。噂というものは、次々と耳に入る。
それが、悪い噂であればあるほど。


ある者は事故を起こして入院し、仕事すらできなくなった。

ある者は信頼していた部下に裏切られ、経営危機に陥っている。立て直しは難しそうだ。

ある者は髪が抜け落ちた。

もうこの世にいない人もいる。


ーーーーーだけど、彼らにも、いや、彼らの方が、一見、世渡りは上手に見えた。

一見、苦労なく世の中をゆうゆうと泳ぎ、これからもそうやって、上手に生きて行くのだろう、と思っていた。

決して能力のない者たちではなかった。

それなりの財力がある者もいた。


それでも、何故か私に理不尽な攻撃をしてきた者は皆、遅かれ早かれ何らかの不幸に巻き込まれて行ったのだ。


最初はもちろん、偶然だと思ったものだが、あまりにも続く。


ごく最近では、「いくら私が恨んでも、この人が失脚することはないだろう」と思っていた強者ですら。


ーーーーーー私は自分のもつ"念"の力が怖くなった。


この話は、ほとんどの人が知らない。

ただ、過去に唯一、話した事のある後輩は、自分の母親がまた"そう"であると言っていた。

"喧嘩をした相手が不幸になる"

…ああ、やっぱり私の他にも、同じような事を考え、感じる人間がいるのだ。

この時、頭の中で一本の線が繋がったように感じた。


パワーが強力すぎるのか。

叩きつけるように投げられた理不尽に対して、強力な負のパワーで、語らずとも、手を下さずともその瞬間に、反撃してしまっているのか。

とんでもなく悪い事をしてしまったような、そんな気持ちになった。

ただ、この現象において、彼らに巡った不運の直接的な理由が、私起因ではない事も共通点だ。

全てが私のせいではないのだ。
私が彼らから受けてきた理不尽な仕打ちや、暴言が、私だけのせいではないように。


●因果応報説

何の根拠もない仮説ではあるが、
私が思うに、"彼ら"は、自分の不幸や苛立ち、上手くいかない"何か"に怯え、自分より立場の弱い人間や"言いやすい人間"に狙いを定め、私にしたように大勢の人間に負の感情を手当たり次第、さまざまなやり方でぶつけてきたのだと思う。

立場上言い返すことのできないどこかの店員さんや、気弱な部下に後輩の些細なミスに。

ともすれば、家族や友達、自分の周りにいつも居る、居て当たり前になった近しい人間にも。

赤の他人に悪態をついたり、喧嘩を売ったりもしたのかもしれない。


そして、それらを気にせず「うざ。」程度に受け流せる者もいれば、心に大きな傷を負う者もいたし、私のように恨みにも似た負の感情を抱く者もいただろう。


自分の抱いた負の感情は、ぶつけた時点で相手の心にも同じように宿るのだと思う。

人によっては"受け取らない"事で丸ごと相手に還す事ができるが、ほとんどの人が投げつけられた負の感情を丸ごと受け取り、心に同じものを宿すのだと。

本人はぶつけた事すら忘れていても、受け取った側の心の中で、それは大きく育って行く。


誰かに理不尽な負のエネルギーをぶつけた数だけ、それらは受け手の心の中でむくむくと2倍・3倍と膨れ上がり、やがて"念"となって還って行く。

自ら発した負のエネルギーが、想像もできない強さと大きさを蓄えて自分の元に還ってくるのだ。


ーーーーーー簡単に言えば、そりゃそんなところ構わず当たり散らしていたら敵も増えるよねぇ。ってこと。


大勢の人間に、私が抱くような「お前が幸せになれるはずがない!成功するわけない!」みたいな感情を抱かれていたとすれば、それは決して目には見えないけど、集合意識的な何らかのチカラが作用しないとも言いきれないのではないか。

去年の暮れ頃、私はXにこんな投稿をしていた。

人の浴びる"念"みたいなものって本当にバカにできなくて、他人に当たり散らして自分の不安や不満を解消しようとか、自我を保とうと振る舞う人間は周囲から相当量の邪念を浴びてるのでどうしても上手くいかない。

一生懸命やっててもある環境では嫌われてしまう人、とかのとは質が違う。

cona Xアカウントより引用


自分の持つ念の強さに薄々気づき、
だけどそれが直接相手に不利益をもたらしたか?と考えた時に、いや、そうではなくてこれは集合意識的なもので、相手の生き方の問題なのでは?と考え始めたのは、この頃だった。

その後、同じくXのタイムラインに、私の思いが上手く言語化されたこんな投稿が流れてきた。

自分が同じように転嫁される側になったときのことなど考えないのだろうが、他人を狙って一方的に悪意をぶつける溜飲の下げ方はいい結果を生まないよねぇと。リアルでもネットでも、そういう振る舞いは確実に自分の自尊心を傷つける。爽快は一瞬で、向けられる嫌悪だけが”ずっと残る”。

ひろた かおり 様Xアカウントより引用

そう、ぶつけた側はスッキリ爽快!かも知れない。
その後はメシ食って寝て、すっかり忘れているだろうけど、相手の心に確実な禍根のタネを植えつけたはずだ。

自らの問題に向き合う事をしないから、いつまで経っても満たされる事も、況して解決する事もない。

その怒りや悲しみを本来ぶつけるべき相手は他にいるはずだ。

パートナーなのか、夫や妻なのか、友人なのか、それとも、いつまで経ってもこんな形で不満をぶつける事しかできない自分自身へ、なのか。

話し合うべき事、自ら動いて解決すべき事を何一つしようとせず、相手を選んで一方的に、これでもか!と悪意をぶつける。

こんなやり方で、そもそも彼らの人生が豊かになる事などあり得ないのだ。

それに気付けない事、自ら敵を生み出す生き方を改める事ができない事もまた、"応報"なのかもしれない。


◼︎優しくて生きづらいあなたへ。


時に思い返しては不快感に奥歯を噛み締める事はあっても、別に彼らがこの世を去ることや、全てがうまくいかなくなるように、と四六時中祈っているわけでもない。

正直、彼らには私と関係のないところで、
2度とこの人生に関わらずに生きてくれるのであれば、相手がどうであろうと構わない。

ーーーーーピンチに駆けつけ、助けてくれていたかもしれない"誰か"の手を、自ら不要と払いのけ、邪険にしながら生きてきた。

そんな人間を、誰が助けるだろう。

助けを求められる相手がいないのは、そもそもそれだけで不幸だ。

事故に遭うことだけが不幸なのではない。
本当の不幸は、そんな時に誰も、助けてくれないことだ。

誰もそばにいないことだ。向き合ってくれない事だ。

人は、人なしで生きる事は不可能だ。
繋がりなしで生きる事は不可能だ。

人生において最も大切にすべきものを、自分可愛さに蔑ろにしたのだ。

報い、と言うよりは、己の行動の結果、と言ってもいいだろう。


優しく、生きづらいあなたは、誰かの心無い言葉に傷つき、自己肯定感を失ってしまう事もあるだろう。

一見では世渡り上手に見えたり、
「憎まれっ子世に憚る」の諺の通り、自分のようなちっぽけな人間がどんなに憎んでも敵わないように思うと、ますます相手が大きく見える。

自分と比べて、相手より幸せになるなんて不可能だ、と思う事もあるだろう。


それでも、あの時、
同じような怒りに飲まれて相手を傷つけたり、別の手段で報復を試みたり…それを"人として"決して善しとはせず、歯を食いしばってその場を耐え、思い出してはずっと堪えてきたあなたは、決して逃げ出した訳ではないし、弱虫でもない。

むしろ相手が絶対に手にする事ができない強さと、向き合う勇気をキチンと持ったまともな人間なのだと私は思う。

1人残らず世界中に愛される事は不可能でも。
人よりも嫌われる事や攻撃される事が多くても。
一瞬でも相手の不幸を願ってしまった事があっても。

決して彼らのようなやり方で、一方的に他人を傷つける事がないのであれば、それだけで胸を張って生きていてほしい。


ずっとそのままで、強くあってほしい。

いつかその傷が、いや、できるだけ早くその傷が、優しいあなたの周りの優しく温かい人々によって癒される時が来る事を願ってやまない。


●あとがき

もし、もしも私の念が強い事が原因であるなら、
これからは誰かを恨んだり「あんなやつが上手く行く訳ない」なんて毒づいたりするのではなくて。

「私が幸せになれないはずがない」
「私が成功しないわけがない」

みたいな、プラスの作用も同じように働くのではないかと思ったりもするのです。


根っからの慎重派で、マイナス思考なので、この作用の恩恵を受けられるのかはちょっと自信がないけど。


人間って、
幸せに向かうパワーより、なぜか怒りや悲しみに向かうパワーの方が強いように感じるのは、私だけでしょうか。

ゴシップが好きだったり、炎上に加担したり、他人の投稿にクソリプを放り投げてみたり。

思えばマイナス方向にのめり込みやすい生き物のような気がするのです。

みんな幸せになりたいはずなのにね。

こんなにも他人に怒りや憤りを感じる事ができるなら、それと同じ熱量で、幸せや喜びを感じ、それに向かって猛烈に走り抜けることができればいいのにな。

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