3.11から10年、地方を考える~小松理虔『新復興論 増補版』を読んで
(2021年3月11日に増補版が出ていますが、なぜかリンクurlが上手く反映されないので上は旧版のもの。)
3.11から十年経つという。当時はTVで見た中継の映像で大変な衝撃を受け、これが本当に国内で起こっていることなのかと感じた。自分は西の生まれなので被災地の方と比較すると、受けた被害の度合いというのは各段に小さなものであった。それが故に、どこか3.11後の東北のことを思うと自分なんかが何か意見を口にしても良いものだろうかという意識がある。被災で家族や友人を失った方々に何ができようかと考えても、自分が積極的に言及する余地はないのではないかと結論付けてしまっていた。
上のリンクで表示されている新復興論(自分が読んだのは2021年出版の増補版)で、小松氏は3.11のこと、あるいは地方のことについて考えるのには当事者意識に縛られず、共事者意識でもって柔軟なアプローチを取ることが重要となるのではないかとの見方を示している。共事の心というのは解釈するに、例えば被災地のことに関して、明確に被害者と外部を二別し議論を誰が当事者かのような定義の問題に終始させたり、あるいは外部の意見を遮断することなく、内/外の境界線を緩やかにし誰もが共に考える主体として考えていける余白をつくる姿勢であると受け取った。自分も被災地のことに限らず、何となく当事者以外の人々がある問題に関してどこまで関わって良いか等思い悩むことが多かったために、この考え方は新鮮でまた諸々の課題解決にも重要な視点だと納得させられた面が多い。それに、著書に指摘されるよう、例えばそもそもに3.11には原子力など日本全域に関わるエネルギーの問題でもあり断絶した局所的な課題として良いことではない。ひいては、その他の地域についても、さまざまな食品や製品の流通においてどこともつながっているので、関りという意味では誰もが持ち得るものなのだろう。3.11の直後、福島からの電力、農産物の供給が途絶えて難儀した人は多いはずだ。その意味では、やはり共事として3.11を考える姿勢は欠かせないだろう。
『新復興論』を読んで、3.11のことを再考するきっかけともなれば、自分の生まれた故郷について考える契機ともなった。自分も地方出身者であり、小松氏の語る地方創生の課題には共感するところが多かった。一部、専門家によって科学的な解決が不可欠なのだとする姿勢が、地方住民の感覚的なところに無神経であったり、またある経済的、政治的な利害に巻き込まれて地域コミュニティの中でも断絶が生まれてしまうなどは、自分の住んでいた地方でも存在している。地域をめぐる問題は決して閉鎖的なものでなく、さまざまなところとの絡みで複雑化することが多いのだろう。この辺りは、復興の問題だけでなく、地方自治など地域に関わることに関心のある方には大変参考になることと思う。それこそ、外部への不満のように聞こえるかもしれないが、概して上京してから交流をもっているエリート層の方々の地方観にはどこか見下したものを感じることが多く、それは地域=非科学的という前提からきているようだ。別に感情と論理、どちらを優先すべきかという話ではない、どちらだけを持ち上げ一方的に語るのは良くないという話だ。
小松氏は著書中で写真を交えながら氏の地元のバックグラウンドを生々しく描いている。驚くことに、振り返ってみると遠く離れた自分の地元も多くの共通点を抱えている。津波対策のことや近くの原発のことなど、そしてそれらが生活風景の一部となっていて愛憎入り乱れる感情の交錯があること。そういった共通のことを思いめぐらせていると、なんとなく共事として考える意義も尚更理解できるものだ。改めて地域のことを考えるのに、良い機会となる本だと思ったのでちょっとした感想までに...。