あなたの「コミュ力」は測定できるのか?

はじめに

人間のスキルを測定しなければならない局面はますます増えています。

企業の採用試験においては「コミュニケーション力」(コミュ力)の測定が重要。よりよい特別支援教育のためには「知能」や「多動性」の評価が必要。研修の前後で受講生の「主体性」が増したかを測定し研修効果の評価が必要。このような具合です。なおこれらの例からわかるように、測定というのは人材開発や教育の問題とも不可分です。

しかし重要なのは、こうした心理的なスキルというか、人間の内面を測定することは、物理的なものを測定するのとは勝手が異なるということです。はっきり言えば、物理的なものを測定するのより、心理的なものを測定する方がよほど困難で危険です。それは、人材育成や教育が場合によっては危ういものになってしまうことを意味します。

では心理的なスキルの測定の特徴とは何か? 以下で見ていきましょう。

測定したものと対応する実体があるとは限らない

骨密度の測定を考え、知能と比較してみましょう。

骨密度はいうまでもなく、骨という明確な実体の物理特性から算出できるもので、その測定にあいまいさはありません。言い方を変えると、骨密度は測定結果を骨の物理的な状態に100%還元できるということです。

知能はどうでしょうか? 実は知能というものは、脳のどこかの部位に明確に対応するものではなく、ゆえに脳の物理特性に100%還元できるものではないといわれています。知能というのは何か物理的な根拠があって生み出された概念ではなく、「もしそういう能力が人間の内側にあり、測定できるのだとすれば、教育の役に立っていいなあ」という願望から生まれた概念なのです。

一般に(心理的な)スキルというものは「そういうものがあったらいいなあ」という願望から生まれたものにすぎません。このように便宜上存在するものと仮定された概念のことを(仮説的)構成概念とよびます。心理的なスキルというのはほとんどが構成概念です。そういう概念を仮定したうえで、ではその概念を測定するテストとは論理的に考えればどのようなものでありうるか? ということを研究者は議論し、知能検査等々を開発しているのです。ちなみにその「論理的に考えたときのもっともらしさ」のことを妥当性といいます。

構成概念というのはあくまで便宜上仮定する概念ですから、必要に応じて無限に作成できるという利点があります。しかしここまでの議論からなんとなくおわかりかと思いますが、危うさをはらむものであります。そうした危うさについて次に論じます。

仮定したものを「100%実在する・しない」と錯誤する危うさ

構成概念はあくまで便宜上仮定したものにすぎませんが、それが広く人口に膾炙するうちに、まるで本当にその構成概念が実在するかのように錯覚されてしまうということが起こります。そして人々は、例えば「コミュ力」は人間の脳のどこにあるんだというような不毛な議論を繰り広げ、無駄な労力を使ってしまうのです。また構成概念はやはり仮定のものである以上かなり限界のあるものなのですが、まるで骨密度レベルの正確さをもって測定・活用できるようにも思われてしまいます。以上の認識に立脚して採用や教育が行われると、新入社員や子どもが要らぬ苦労を強いられてしまうおそれがあります

哲学には実在論(実念論)とよばれる立場があります。これは概念に対応するものが実際の世界にも「ある」と考える立場ですが、構成概念に対峙するとき、人々は素朴な実在論にはまってしまっているということができます。

一方で「その概念は便宜上のもので、対応するものは実在しない」と考える立場は唯名論とよばれます。ここまでの議論に則れば、構成概念の基本的な扱いというのは唯名論的なものであるということができましょう。

しかしこの考え方にも落とし穴があります。それはその概念の根拠となる実体がまったく存在しないという錯誤をもたらすことです。ここまでの議論はあくまで「その概念を100%ある実体に還元することはできない」ということであって、「その概念をいかなる実体にも還元できない」ということではないのに注意してください。例えば、ADHDの子の頭の中に「ADHD回路」などという明確な実体があるわけではまったくないのですが、ADHDの子に他の子と異なる行動パターンがあることは直感的にわかることです。ADHDの診断はこの行動パターンを基に行っているわけで、何ら根拠がないわけではないことは明らかです。社会的にADHDという疾患が「作り出された」、それは薬を売らんとする医療業界の陰謀である、とする考え方はこの点をあまりに過小評価しています。

平たく言えば構成概念は、「対応する実体はあるものの、何らかの実体に100%対応するものではない」という中くらいの存在であることを意識すべきでしょう。

構成概念は使うべきなのか

以上のようなものであるため、構成概念の使用には注意を要します。あまりに注意を要するので、「何らかの事象(例:問題行動)の説明に構成概念(例:知能)を使うべきでない」という急進的な立場も存在します。それは徹底的行動主義とよばれるB. F. Skinnerが創始した立場です。Skinnerはあくまで目に見える行動にのみ注目し、その背後に何らかの心理的なスキルがあるという見方をとりませんでした。この立場はある意味非常にシンプルで使い勝手が良く、自閉症スペクトラムをはじめとした障害の療育に応用され、数多くの成果を挙げています。

しかし冒頭でも述べたように、構成概念は柔軟に作成できるというメリットがあります。よって月並みな表現にはなりますが、必ずしも構成概念を放棄する必要はなく、自分なりの立場をもって適度な使用を心掛けることが大事だということになるでしょう。

このあたりの話を、世の中の資本家や経営者、教育関係者にはわかっていただきたいものです。

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