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【パノプティコン】解雇フリーの時代にしなやかに対応するには

終身雇用制度を「敵」として考えてみる

冒頭から少し強い表現を用いたタイトルを付けていますが、これはあくまで一つの思考実験としてお考えいただければと思います。

なぜこのような思考実験を行うかと言えば、終身雇用制度は一見すると安定的な制度に見える一方で、実際には経済の柔軟性を損ない、労働市場や企業の競争力に悪影響を及ぼす「害悪」とも捉えられるからです。

終身雇用制度は、労働者が一つの会社に長期間勤め続けることを前提としています。労働者自身は「定年まで安定した収入を得られる」という点にばかり注目しがちですが、これは同時に「労働市場における雇用の流動性が低くなり、転職や新しいスキル習得の機会が制限さている」ということに他ならないんですね。

OECDのデータによれば、日本の労働者の転職率は他の先進国と比較して約30%低いとされています[1]。これは「終身雇用制度を止められなければ止められないほど」に、新しい技術や業界の変化に対応する機会が減少し、一人ひとりのビジネスパーソンのキャリア形成を阻害し、結果として日本の経済全体の競争力が低下するリスクが高まっていってる、ということなのです。

こう書けば「安定を望んで何が悪いんだ!?」という反発を受けそうですが、安定を望むこと自体は悪いことではありません。むしろ、安定を求める心理は人間の自然な欲求であり、それがあるからこそ、私たちは安心して生活を送ることができるのです。しかし、問題はその安定が「見かけ上の安定」であり、実際には急速に変化する市場に適応できない環境を生み出している、という点にあります。

たとえば、今日のビジネス環境ではAIや自動化、デジタル化が急速に進展しており、多くの職種が過去には存在しなかったスキルを求められるようになっています。そんな中にあって終身雇用制度にばかり依存をしていると、労働者は現状に甘んじてしまい、こうした変化に積極的に対応する機会を失ってしまうのです。これでは、いざその「安定」が崩れたときになって初めて、自身に新しいキャリアを築くための教養が不足していることに気づくことになります。

例えば、いま話題になっている「解雇規制の緩和」について、自民党の総裁選で河野さんが言及したことが、いったいどういうことなのか?ということは知っておく必要があります。詳しくは以下の記事を読まれてください。

実際、多くのビジネスパーソンが終身雇用に疑問を感じながらも、その枠組みに縛られている、という現実があります。「安定」を手放すのは確かに勇気が必要なのかもしれませんが、真の安定とは「やってくる変化にしなやかに対応できる力を持つこと」だと言えるのではないでしょうか?

自分のスキルセットを柔軟にアップデートし、市場価値を高め続けることこそが、今後のビジネス環境での生き残り策だと考えるべきです。


しがみつくだけの「オトナ」には、ご退場を

そしてもう一つ、私たちはそろそろ「しがみつくこと」ばかりに執着している「オトナ」たちに、ご退場いただく必要があるのではないでしょうか?

中高年層が企業の重要ポジションを占めることによって、彼らの存在が若手の才能を発揮する場を狭め、組織の柔軟性を欠如させています。さらには、未だに女性の職場進出をも妨げています。こうした状況では、企業は新しい風を取り入れることができず、持続的な成長などまるで見込めません。

もちろん、ここで私はマルクスの『共産党宣言』にあるような、劇的かつ暴力的な改革を提案しているわけではありません。むしろ、私たちは冷静に、そして戦略的に変革を進める必要があります。企業文化や人材の流動性を高め、これまで「蓋」されていた、才能が光る場を作り出すための改革です。

安定を求めることは決して悪いことではありませんが、その安定が「停滞」に変わってしまう瞬間に、私たちは何かしらの行動を起こさなければならないのです。今、本当に必要なのは、変化に対する恐れを捨て、柔軟に対応し、未来を切り開く力を持つことです。

ですから私たちビジネスパーソンは、重要ポジションに居座りながらも、輝くことを止めてしまったオトナたちに「あなた方の体たらく、まさか誰にも見られていないと思っていませんか?」「私たちは、あなた方を見ていますよ」というメッセージを伝えていく必要があるのではないでしょうか?


権力の変遷

話は15世紀のフランスに遡ります。当時フランスの絶対権力者であった国王ルイ15世が馬車に乗ろうとした時、ナイフで斬りかかり、傷を負わせた男がいました。寒い時期であったために厚着をしていたルイ15世は致命傷を免れますが、男はその場で抵抗することなく捕らえられ、様々な拷問を受けた後に公開処刑されることとなります。

当時、罪を犯した人間には容赦のない残酷な裁きを下し、さらにはそれを民週に向け見世物のよう晒していました。なぜでしょうか?当時の民衆は「北斗の拳」に出てくる「ヒャッハー!」というタイプの人々ばかりだったのでしょうか?もちろんそうではありません。それはこの時代、その国を牛耳っていた権力者が、自分の力を見せつけたり、犯罪によって傷つけられた自分の名誉と威信を回復させるための「儀式」としての意味合いが、そこにはあったといいます。

処刑の場にはたくさんの人々が傍観者としてやってきました。この民衆は、今でいうところのマスコミや、再生数稼ぎのSNS利用者と考えていただければいいでしょうか。そして権力者は、マスコミ役の民衆らが、処刑の様子を世間に拡散してくれることを期待していました。 ですから、敢えて脳裏に焼き付けるような処刑を行い、自らの正当性、絶対性を示していたのです。

それから月日が流れた18世紀末、こうした身体を痛めつける処罰は見直され、個人を「閉じ込める」といった新たなシステムが導入されることになっていきます。その理由を考察したのが、20世紀に活躍したフランスの哲学者ミシェル・フーコーでした。

フーコーは彼の主著『監獄の誕生』において、「刑罰制度の対象は、もはや身体ではなく精神なのである。身体に猛威をふるった罪滅ぼしの後に続くべきは、心、思考、意志、素質などに対して作用すべき懲罰なのだ」。という主張を展開しています。

ふむふむ、処罰を与えるターゲットが、時代の流れとともに人間の「外側」から「内面」へと切り替わったのだ、と。

では、なぜターゲットが変わったのでしょうか?まさか人間の「外側=肉体」よりも「内側=精神」の方が、ダメージが大きいといった科学的根拠でもあるのでしょうか?

いいえ、実はそうではありません。フーコーが着目したのは、人間の肉体でも精神でもなく「社会の権力」でした。フーコーはつまり、「世の中を支配している権力の仕組みが変わったので、それに合わせて刑罰の方法も変わっていった」という解釈をしたのです。

では、フーコーが見抜いた「権力」とはそもそも何なのか。それは、「他人に何かを強制し、服従させる力」のことです。ですから15世紀の当時においては、ルイ15世のような絶対的立場にいる人間だけが権力を持つことができました。ところが17世紀から18世紀にかけて、王の権力の他に、新たな権力が誕生したことをフーコーは眼光鋭く見抜いたのです。


規律訓練型の権力

さて、ここでまず必ず押さえておきたい概念が「規律訓練型の権力」というものです。フーコーによれば、17~18世紀を通じて世界を支配していた権力が、ルイ15世らに見る「絶対的な権力」だったのに対し、これが徐々に「規律訓練型の権力」へと移行した、というのです。

「規律訓練型の権力」というのは文字通り「人間を規律に従わせ、訓練を施し、社会の秩序をコントロールしようとする力」のことを指します。もっとはっきりと言いきってしまえば、「人間を都合のいい労働者にしたり、兵隊にしたり、何らかの目的を果たすための道具に作り変えることを目指した権力」のことです。つまり、王様の力技で社会を回すよりも、従順に動いてくれる駒を増やして、効率よく社会を動かした方が好ましいという時代がやってきたのです。

フーコーはこの規律訓練型権力について、同書で次のように述べています。

規律訓練型権力の主な機能は、搾取や天引きの代わりに訓育を課すのである。あるいは多分、もっと巧みに天引きしたり、より多く騙し取ったりするために訓育を課すといった方が良いだろう。規律訓練こそが、個々人を作り出すのであり、それは個々人を権力行使の客体、並びに道具として手に入れる、そうした権力の特定の技術である。

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』


これは実に恐ろしいことを言っているのですが、この恐ろしさがおわかりになるでしょうか?

まずは要約すると、これまで王様が持っていた絶対的権力は、人間の肉体を痛めつけて怖がらせた上で、社会を回すというシステムだった。その一方、規律訓練型権力は、人間心理を巧みに支配し、肉体を壊すのではなく、都合の良い道具に作り変えることによって、社会を回す新技術であると言っているわけです。

なんとも恐ろしいことを言っているわけではありますが、しかし現代を生きるビジネスパーソンである私たちにとって、「へえ、当時はそうだったんだ」とは思えても、なかなか自分ごととして受け止めるには、今一つピンとこないと思います。

そこで、この規律訓練型権力を発動させる、四つの仕組みというものを解説します。この解説、もっと言えばネタバレをお読みいただくことで、「これって私たちのことじゃない?」「これがお前らのやり方かー!」と、私が主張している「企業の重要ポジションに居座りながらも、輝くことを止めてしまったオトナたちに「私たちは、あなた方を見ていますよ」というメッセージを伝えていくインセンティブ」について、イメージしていただけるようになると思います。


1.閉じ込める

まず一つ目の仕組み、「人間を閉鎖された空間に閉じ込めたうえで、特定の場所に配置する」ということです。

これはどういうことかと言えば、例えば学校の教室、あるいは企業の研修室などがそうです。初めに私たち人間を閉鎖された空間に閉じ込めます。そして、「あなたはこの席に座ってください」「あなたはこのグループです」「あなたはこの位置にいてください」。というように、私たち一人ひとりを配置していきます。閉じ込めて、言うことをきいてもらう準備を整えます。


2.時間と行動の管理

次に二つ目が、私たち人間の「時間と行動を管理する」ことです。ここでも例えを挙げれば、「何時から何時までは、この作業をしてください」。 というように、時間を分刻みで細分化し、それに従わせます。つまり時間割りをイメージしていただければ良いです。こうしてまずは「時間を守ることの重要性」を叩き込みます。

すると今度は、その時間を過ごす上での理想的な姿勢や態度を矯正します。 例えば、教育者に対しての態度、正しいペンの持ち方や文字の書き方といったものが設定され、それを守るように徹底的に指導するのです。


3.段階的な教育

そして三つ目が、「人間を段階的に教育する」ことです。 要するに、対象者全員に等しい内容の教育を課すのではなく、個々の年齢や成長に応じた教育システムを作り上げる。そしてこれを段階的に教え込んでいくのです。


4.歯車化

最後の四つ目は、「人間を組織の歯車にする」ことです。これは人間の肉体を一つの完成品ではなく、部品として作り上げ、その部品たちを組み合わせることで、社会全体を回すようなイメージです。

ここでのポイントは大きく二つあります。

①部品であれば、いつでも変えが利く
②部品であれば、命令の内容やその意図を理解する必要がない

①については、私たち人間はあくまでも完成品ではなく部品の一つなので、いつでも変えが利きます。つまり、人間一人が辞めてしまおうが、倒れてしまおうが、変わりはいくらでもいますから、組織全体、社会全体には何ら影響は出ないというわけです。

そして②が、部品である人間たちは、命令の内容やその意図を理解する必要がないので、個人の意思や考えはそもそも不要なのです。とにかく黙ってtaだただ機械のように、管理者の命令通り動いてくれる方が良い、というわけなのです。

さて、ここまでを読まれていかがお感じになられるでしょうか?私は決して読者を悪戯に驚かせたい人ではありません。そうではなく、皆さんの中に、もしもこの社会に対して「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と無意識的に感じている方がいらっしゃるのであれば、あくまでも私個人の仮説としての「その欺瞞の正体」をご提示したい人なのですね。

私はこの欺瞞の正体を、著作家の山口周氏の著書『武器になる哲学』を読んで、「なにかおかしい思っていたその正体は、これだったのか」と目が覚めた人なので、受けた恩をできるだけ多くの方にお贈りしたい人なのです。

ちなみに、本記事で取り上げるキーコンセプトはフーコー(正確にはその前の世代のジェレミー・ベンサム)が提唱した【パノプティコン】という概念なのですが、これは私が『武器になる哲学』を読んで、更に自分で勉強をして、話を広く展開して、そしてこの記事にまとめています。ですから元ネタとはずいぶん違う内容となっていますので、是非とも同書をご一読いただければと思います。皆さんそれぞれの受け取り方があるはずです。

というわけで話を戻せば、「規律訓練型の権力」とはまさに、今の私たちビジネスパーソンを大量生産し続けているシステムそのものなのです。

我が国では江戸時代末期、鎖国を終わらせ西洋列強と対抗するため、急速な近代化を必要としていました。欧米諸国の圧力に対抗するため、強力な軍事力と経済力を持つ必要があったのです。

経済の発展を達成するために、産業の育成や技術の導入が奨励されました。新たな工場やインフラが整備され、農業から工業中心の経済へと転換していきました。

江戸時代の寺子屋では、地域の子どもたちが集まり、読み書きや算術などの基本的な教育を受けていましたが、指導方法は比較的自由で、師弟関係は親密なものでした。個人に合わせた学習が行われ、強い規律や管理は少なかったとされています。これが江戸時代の「寺子屋」スタイルの訓育です。

それが明治時代に入ると、「富国強兵」を目的に、西洋の教育制度をモデルにした公教育制度が導入されました。全国一律のカリキュラムや厳格な時間割、教室での行動規範が設定され、子どもたちは集団で同じ内容を学び、厳格な規律のもとで育てられるようになりました。

これが現代に至るまで続いている「学校型」スタイルなのですが、このスタイルを継続させしめるベースには、フーコーが指摘した「規律訓練型の権力」が、知らず知らずのうちに発揮され続けているわけなのです。」

これはフーコーの視点から見ると、学校は知識伝達の場ではなく、国家が個人を規律し、社会に適応させるための装置ということになるでしょう。時間の管理や空間の配置、集団行動などを通じて、生徒は「従順な身体」を形成し、社会の規範に従うように訓練されます。現代の学校制度は「規律訓練型社会」を生成するために効率的に設計された場所なのです。

そう、なんということはない。富国強兵の「兵」が、軍人ではなくビジネスパーソンになっただけなのです。

そして医学が進歩し人間の寿命が大きく伸長した現代において、中高年層が企業の重要ポジションを占め続ける。そうなれば当然「頑張らなくても安定した収入が得られるからそれでいい」という、輝くことを止めてしまった「劣化したオトナ」が生まれるのは必然なのです。

許容できますか?なにか、おかしくはありませんか?


パノプティコン

さあ、それでは「おかしい!」「理不尽だ!」と感じられた方は、いったい何をどうすればよいのでしょうか。そこでご紹介するのが本記事において一番押さえていただきたい概念、それが「パノプティコン」です。

時はもう一度18世紀の終わりに遡ります。パノプティコンは、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムによって、18世紀後半に考案されました。ベンサムは1787年頃にこの概念を提唱し、世界初の監獄の設計として構想しました。これをミシェル・フーコーが用いて、近代社会における権力と監視のメカニズムを分析したことで、再び注目されるようになったのです。それが本記事で取り上げている、フーコーの主著『監獄の誕生』というわけですね。

さて、パノプティコンとは、中央に監視塔を設け、その周囲に囚人の部屋を配置することで、「監視者が囚人を一方的に監視できる構造」です。

監視塔からは囚人の様子をいつでも確認できる一方で、囚人は監視されているかどうかわからない状態に置かれるため、「自主的に規律を守るようになる」という効果を期待したものでした。この設計思想は監視の効率化とコスト削減を目的としており、刑務所や工場、病院など、様々な公共施設に応用できるとされました。

最初にパノプティコン構造の監獄が建設されたのは、イギリスではなく、実はキューバのハバナにある「プレシディオ・モデル」という刑務所で、1926年から1931年にかけて建設されました。この監獄はベンサムのパノプティコンの原則に基づいており、中央の監視塔とその周囲に配置された独房という構造を持っていました。この刑務所はキューバ革命後に有名になり、かつてフィデル・カストロが収監されていたことでも知られています。

私が生成した参考イラストを見てもらいましょうか。わかりやすいようにかなりデフォルメしていますので、実際の建物にご関心のある方は、ご自身でググってみてください。なかなかの衝撃的な造りをしています。



なぜ、こんな奇妙な設計なのか、あらためて説明をすれば、この構造こそ規律訓練型権力が十分活かされるような設計になっているということです。ここでは、囚人たちの肉体を痛めつけることなく、規律に従わせ訓練させ社会の一員になれるように矯正します。

18世紀に開発された設計技術ですから監視カメラはない。その代わり、独房の窓と、監視塔の内部構造に工夫がなされたそうなのですが、本記事ではこの構造自体は重要ではないので説明はやめておきましょう。

パノプティコンという概念の何を抑える必要があるのかと言えば、それは「囚人たちは監視員の顔も人数も何一つ情報が得られない。囚人らは、常に誰かに見られているという心理的ストレスを受ける。だから彼らは嫌でも規律を守り服従せざるを得ない」というのが重要なポイントなのです。

フーコーはパノプティコンの重要性について、次のように述べます。

パノプティコンは重要な装置だ。なぜならそれは、権力を自動的なものにし、権力を没個人化するからである。

ミシェル・フーコー『監獄の誕生』


そう、パノプティコンというシステムとはつまり、特定の誰かが権力を持つ必要がないというのです。では具体的に、どのようにしてこのシステムは稼働しているのでしょうか?このポイントは次の三つから成り立っています。

1.監視

一つ目のポイントはもちろん「監視」です。監視とは、常に管理者の目によって行動が見張られ、規律通りに行動しているかどうかを確認されることです。パノプティコンの特徴は、この監視が見えないもの、しかし絶えず存在しているという状態にあります。実際に誰かが見ているかどうかは関係なく、「常に見られている可能性がある」という意識が強制力を生むのです。これは現代社会でのデジタル監視や、企業の内部管理システムにも通じるものがあります。

2.制裁

二つ目のポイントは「制裁」です。パノプティコンにおける制裁は、物理的な罰ではなく、反復的な訓練や制約を課すことで規律に従わせる仕組みです。例えば、学校であれば追試や特別課題、職場であれば上司からのフィードバックや修正依頼の繰り返しなど、心理的なプレッシャーを加える手段が用いられます。規律から逸脱すると、その都度「罰」という形で反復や再訓練が行われるため、自然と規律を守るようになっていきます。

3.試験と分類

三つ目のポイントは「試験と分類」です。ここでは、個人の行動や成績が詳細に記録され、それに基づいて適切な評価が下されます。この情報の蓄積は、個人を適切な場所に配置したり、評価によって制裁や監視の強度を変えるために利用されます。また、周囲の他者との比較や評価によって、常に自分を「平均以上」に保たなければならないという圧力が生じます。これによって、個人は自身を管理・監視し、パノプティコンの中で自らをコントロールするようになります。

このようにして、規律訓練型権力は誰も抗えないほどの凄まじい強制力を持つようになる、それがパノプティコンをパノプティコンたらしめる真の所以なのです。

それが今日では「常識」という概念に言葉を変え、私たちのビジネスシーンでは「管理者」という人々が、私たちを監視し、試験と分類に耐えられないビジネスパーソンに制裁を与え、私たちは物言わぬ歯車化されているの「かも」しれないですね。


パノプティコンを「ハック」する

最後に、私はこの社会の欺瞞を形成している、輝くことを止めてしまった「大人」たちに対して、「おかしい!」「理不尽だ!」と感じる皆さんに、ぜひ絶望するのではなく、祝福の武器を手に取っていただきたいと考えています。

中高年層が企業の重要ポジションを占めること自体は、決して好ましい状況とは言えない、ということは既に述べてきた通りです。そんな方々に、乱暴な圧力をかけてほしいなどとは考えていません。

ここまで述べてきた通り、彼らが何をしているか分からないのであれば、「何やっているんですか」「働いてください」などといった強い声を上げるのではなく、「今日のご予定は?」「今後の方針は?」「現状の売り上げは?」「今後のアクションは?」など、質問を投げかけるという意味での「制裁」を提示することは、充分に効果を発揮すると思います。

あるいは皆さんの方から、他の上司や部署との成績を分類化して、「私たちもこのままではいられないのではないか」という提案をするのも良いでしょう。乱暴な方法など選択せずに、皆さんが働く環境を少し良くするためのアクションは取れるはずです。

そして社会に対しても同じことが言えます。企業に「しがみつくオトナ」を延命さしめるているのは、終身雇用という制度である、という指摘も既にいたしました。終身雇用を終焉させたがらない、甘い蜜を吸えるだけ吸いたいと言って憚らない企業があるのであれば、SNSなどを通じて声を届ければ良い。

私はこうしてこの noteで声を上げています。それに私の場合は、実際に自社において、そうしたオトナに対して声をかけつづけています。

「年齢?肩書?それが下だからといって、ただ黙っていると思わないでくださいね?正しいと思えない指示をされるなら、その説明をお願いします。私たちは、決してバカなどではないのですから」

「あなた方のことを、ちゃんと見ています」



[1]
Japan | READ online (oecd-ilibrary.or



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ3.真因分析:そもそも、この問題はなぜ起こっているのか、問題の奥に潜む真因を突き止める

キーコンセプト34「パノプティコン」


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