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【シベリア鉄道旅行(3)】 死者の空間、ハバロフスク共同墓地


1. はじめに


こんにちは、前回は「革命の都市、ハバロフスク」について書きました。noteの公式マガジンに掲載されました!良い反応をいただき嬉しいです!(≧▽≦)

今回はハバロフスクの共同墓地について紹介し、「死」とは一体何なのか、私の感想を並べてみます。


2.生の終わりに共存する多種の民族たち


2020年1月3日、私はハバロフスクの北部にある中央共同墓地に向かいました。 私は旅行をするとき、いつもその都市にある墓地に行くのが好きです。今、自分が生きていることに感謝しながら、過去に消えた死者とコミュニケーションができる特別な空間だと思うからです。

地図右側の赤い丸がハバロフスク中央共同墓地です。ハバロフスク駅からタクシーで25分程度です。墓地はロシア語では「クラドビシェ」と言いますが、東アジアの墓地と違って、ロシアの墓地は人の顔が掛かっていてとても異彩を放っています。

最初の入り口にこのような看板があります。入り口で最初に出迎えてくれるのは日本です。 奥に進むにつれて、イスラム、アフガニスタン、チェチェン地区が出てきます。 このようにロシアの墓地には多民族、多宗教が共存しています。さすが多民族国家ですね。

「日本人墓地」という碑が建てられています。なぜこの日本人たちはここで人生を終えたのでしょうか。 この日本人たちは、まさに「シベリア抑留者」としてここで人生を終えたのです。 シベリア抑留者」とは、日本帝国末期、満州・サハリンなどでソ連軍に捕虜となり、シベリア一帯を中心に集団収容所で強制労働をさせられた人々のことです。 

この碑は1956年に建てられたようです。 1956年は「日ソ共同宣言」が行われた年です。 この宣言の結果、日ソ双方は戦争の結果として生じたすべての請求権を相互に放棄しました。 その年、シベリア抑留者たちは賠償金を請求する権利は各個人が負うことになりました。

この長い棒には、日本語、ロシア語、英語で「世界人類が平和でありますように」と書かれています。

シベリアなどに抑留された日本人のうち、約6万人がシベリアで死亡しました。 ハバロフスクの日本人墓地には320人が埋葬されているそうです。

この寒い日に花が置かれています。墓の状態も良い方で、花が置かれているところを見ると定期的に管理されているようです。

墓地は他のロシア人の墓地と同じように、顔のあるものとないものがあります。ロシア語で書かれた方もいれば、日本語で書かれた方もいました。吉田氏の墓地ですね。この方は果たしてシベリアでどんな人生を送ったのでしょうか。

「遠くシベリアの地に眠る 国家に見捨てられたひとびとの墓」(2013)という記事は以下のように説明しています。

そのなかで「吉田明男」氏だけは、高杉一郎『シベリアに眠る日本人』(岩波書店)によってその人生を知ることができる。

 吉田氏は元情報将校の陸軍中尉だったため、ソ連の刑法58条(反革命罪)によって重禁錮25年の刑に処せられたが、1956年の日ソ国交回復で帰国を許される。

 吉田氏は応召の半年前に結婚しており、新婦を故郷の秋田市に残してきた。だが復員船の出るナホトカまで行ったにもかかわらず、吉田氏はなぜか、故郷を目の前にしてハバロフスクに引き返してしまう。

 ハバロフスクの放送局で働きはじめた吉田氏は、やがて女医のターニャと結婚し2人の子どもをもうけ、1980年に61歳で没した。この墓は、妻のターニャが建てたものだ。

 吉田氏が帰国を諦めた理由は、日本では自分はもう還らぬことになっており、妻に再婚話が出ていることを知ったからだという。再婚した日本人妻が1984年にハバロフスクを訪ね、日本人墓地の土と石を拾って吉田氏の実家に墓を建てたことも記されている。

https://news.livedoor.com/article/detail/7954809/

今でこそ、どうにかして家族と行き来できる環境が整いましたが、冷戦時代、そのイデオロギーや国家というものは、いったい何でこれほどまでに個人に厳しいものだったのでしょうか。 もちろん、人生は喜劇と悲劇の連続と言われるように、吉田氏もロシアで放送局の仕事をし、そこで新しい家族を作ったのですから、そこに彼が見た希望もあったでしょう。 個人の人生を根底から変えてしまったイデオロギー・国家の対立は、悲惨でありながらも、どこかカタルシスを感じさせます。

5歳の若さで亡くなったロシアの少年が気になります。彼の墓地を囲む柵には、このロシアの少年が好きだったであろう車が飾られています。 このようにロシアの墓地に来ると、実際の顔が飾られていることが多く、それらを見てどんな人生を送っていたのか、さらに想像してしまいます。

ハバロフスク墓地には韓国人(高麗人)の墓地もあります。墓地の主人公である「金承彬(キムスンビン)」という人物は、20世紀初頭に中国とロシアで独立運動を展開した韓国人亡命者です。 1922年に沿海州にソ連政府が発足した後、ロシアの遠東総合大学で日本語教師として活動しました。 彼は子供の頃、日本語を独学で学んだそうです。 とにかく、彼はソ連軍に参加し、日本軍との戦闘に何度も参加したそうです。

私がこの人物に注目するのは、様々な理由がありますが、その中でも1937年のスターリンの韓国人(高麗人)強制移住に無傷で生き残り、ここで余生を過ごせた数少ない人物の一人だからです。 様々な理由があったでしょうが、ソ連側が極東で日本を相手にする際に、日本語教師として活動した彼の経歴が必要だったのではないかと漠然と思うだけです。

このようにロシア語と韓国語が同時に書かれている人物の墓もあります。おそらく奥様ではないかと思われます。墓がかなり豪華ですね。

一方、このように名前や写真もなく、韓国語で素朴に書かれている場合もあります。彼らの生活については知ることができる資料がないですね。

イスラム教を信じる死者の墓もあります。民族や宗教を超えた墓域の配置がとても印象的でした。死者はこの一つの空間でそれぞれが信じる死後の世界に向かうのでしょう。

ロシアの墓地に行くと、ほとんどこのような小さな教会が一つずつあります。これをロシア語で「チソブニャ(часовня)」と呼びます。ここには、1920~1950年代までソ連を統治したスターリンが1930年代に政治弾圧を行った際に犠牲になった人々を称える石碑があります。

碑石には様々な政治的犠牲者の名前がびっしりと書かれています。私は個人的に「趙明熙(チョ・ミョンヒ)」という韓国人作家の名前を探したかったのですが、運良く見つけることができました。 赤い四角の中の名前が彼です。

趙明熙は、1920年に東京大学哲学科に入学して学び、1928年にソ連に亡命し、そこで教師生活と新聞雑誌の編集長を務めました。韓国、ウズベキスタン、中国で彼を称える行事があるほど海外各地で追悼され、「高麗人文学」の礎を築いたと評価される人物です。残念ながら、1938年の政治弾圧時代に「人民の敵」という罪名で処刑されましたが、現在は名誉回復されました。

そうして民族や宗教を超えた死者の空間、ハバロフスク共同墓地で午前中の時間をすべて過ごしました。 その墓地を訪れることは、その街を生きた過去の魂と交流し、別れを告げる良い方法ではないかと思います。


確かにたくさん歩いたので、体力が急激に落ちたのを感じました。 私は韓国人ですが、特に韓国料理を必ず食べなければならない!という主義ではありませんが、今日は墓地でたくさんの韓国人の霊魂に会ったので、なんとなく韓国料理が食べたくなりました。

当時はお腹が空いていたので、とりあえず無造作に韓国料理屋さんを訪れました。 (今はこのお店はもう営業していないようです...こうして思い出は無情にも過去の裏道へと消えていきます)

モダンでありながら、伝統的な韓国家屋を連想させるインテリアでした。

韓国ではお正月にトックスープ(떡국)を食べます。 寒い季節にぴったりですね。 なんとなく韓国のオリジナルのトックスープに近い味で、かなり満足しました。


3.消えた韓国人街「オシポフカ」



食事を済ませた後、ハバロフスク北郊の「オシポフカ」という村に向かいました。 一般の観光客なら絶対に行くことのない村です。 実際、観光スポットは全くありません。 私がこの方に向かったのは、ここにかつて韓国人の村があったという歴史資料を見たからです。

特別なランドマークがあるわけでもなく、ただ道路とガソリンスタンドがあるだけの、とても静かな小さなロシアの田舎町でした。

近所のロシア人のお年寄りに聞いてみると、自分も子供の頃、両親からここに韓国人村があったという話を聞いたことはあるが、直接見たことはないそうです。 やはり、過去の歴史として消えた韓国人村に、再びやってきた韓国人青年とは。

誰かがある場所にいたということは、もしかしたら完全に消えるわけではないのかもしれません。 彼らの魂の一部が残り、時空を超えて未来の存在をそこに引き寄せるのかも...(歴史学では物語の力を重視しますが、私はその物語というものに惹かれやすいので、誰も行かなくても誰かがその空間にいたら行ってみたくなります)

私は寂しい気持ちで一人取り残された近所の子供のように村のあちこちを歩き回りました。 この寒い場所にコンビニもなく、スーパーもなく、本当に何もないのですが、ただ私は何もないここが不思議と好きでした。 夕方になるとアン川の向こうにかすかに見える夕日も良かったです。

実は韓国でこの村の重要性に注目する学者が結構います。 なぜなら、ここで「安重根(アン・ジュングン)」という人物がしばらく活動した場所だからです。 皆さんもどこかで聞いたことがあるかもしれない人物ですが、歴史に興味がある方なら、おそらく1909年に「伊藤博文」初代首相を暗殺した人物として覚えている方もいるでしょう。

各民族ごとに歴史上の人物に対する異なる利害関係を持つため、安重根についてある側では「テロリスト」、ある側では「独立運動家」として記憶しています。 私もこの人物がここで活動したという事実についてはかなり注目していたので、もしかしたら何か事実関係があるのではないかと思って訪問したこともあります。

一方、この村では1918年1月、ロシア革命の余波の中で、ロシアに住んでいた韓国人がすべて一致団結できるように「韓族中央総会」という組織が設立されたこともあり、韓国系ロシア人(高麗人)にとってはかなり意味のある空間でもあります。 私はただ、何か重厚な意味のある空間に足を踏み入れたという事実そのものにワクワクを感じました。 私にとってはそれが旅行の魅力です。

 もしかしたら、その時期の「韓族会」のに興味があれば、上記のパワポをご参考いただけると、嬉しいです。(私が去年日本大学で発表した資料です)

電車に乗る前にざっと食べたもの。どのようなお店だったかはわかりにくい。 ただ、近所のアパートの中にあった粗末な飲食店だった。閉店しようとしていたようだが、私が入ると意外にも親切に料理を作ってくれた。ご飯を食べながら、オーナー夫妻の話を聞いていた。どんな内容だったかはよく覚えていないが、笑顔で楽しく話している姿を見て、ああいう性格が合えば、年を取っても楽しく結婚生活を送れるんだろうなと思った。

ニシンの漬物、紫色のヴィネグレットはロシアの伝統的なおかずだ。個人的にロシア料理が好きなのですが、理由は素朴で、韓国ではなかなか見られない香りがするからです。留学中にこれらの料理を食べると、韓国のキムチのように、ロシアの伝統料理がよく思い出される。

およそ午後7時30分発の列車に間に合うようにタクシーに乗った。ロシアのタクシーは日本のタクシーに比べて圧倒的に安いので、気軽に利用できる。(日本のタクシー代が1000円なら、ロシアは200~300円ぐらいです。)

革命、そして様々な死者に出会ったところ、ハバロフスクとの別れ。

あの階段を下りるときは滑らないように気をつけてください!

出発を待つシベリア鉄道の様子。 そのずっしりとした大きさは、この寒いシベリアを乗り越えられそうな頼もしさを感じさせます。

いつも乗る前に感じることですが、30分前には到着しないと気が済まない。出発してしまうと本当に困る。(この寒い夜をどう乗り切るか考えてみてください!)

出発する列車の中、席の整理に忙しい乗客たち。

私は夜に電車に乗ることになった場合、ソ連の国民映画を一本ずつ見ていました。(夜遅くまで人と騒ぐと車掌さんに注意されますから) 「運命の皮肉(Ирония Судьбы)」(1975)という映画はその一つですが、私も本当に好きな映画です。 特にこの映画はロシアの「新年」を背景にした映画で、年末年始になるとロシアのテレビでよく放映される映画です。

大晦日、酔っ払ったあるロシアの青年がモスクワからレニングラード(サンクトペテルブルク)行きの飛行機に乗り間違え、そこで同じ住所に住む女性と出会い、恋に落ちるというストーリーです。運命的な出会いと愛を通して、人生の大切さを気づかせてくれるロマンティックコメディ映画です。

YouTubeで無料で見ることができるので、興味のある方は楽しんでみてください!
(余談ですが、残念なことに男優のアンドレイ・ミャクコフ氏は2021年に他界しました。 私がこの映画を見た頃には生きていたのですが...)

4. 終わりに


2020年1月2日~3日、私はそうして革命の街で死者に会い、寒い中強行軍を繰り広げました。 とても疲れていたようで、映画を見ているうちにいつの間にか眠ってしまいました。 夢の中で再びハバロフスクで出会った歴史上の死者を探しに走り回ったようです。 私はただ、昨日も今日もずっと「古いもの」を探しに走っていました。他の人は私がなぜそんなものを探すのか不思議がりましたが、理由は特にありませんでした。 ただ、「ただ」だったのです。 もう一つ理由を付け加えると、すでに亡くなった人たちを見ると、不思議と心が楽になるんです。 今日悩んでいたことも、不思議と捨てられるようになったようです。 (ほんの少しだけですが)

車掌さんに揺られて目を覚ますと、窓の外で少しずつ日が昇り始めていました。 次に向かったのは「自由市」、ロシア語では「スヴォヴォドニ」という都市でした。 決して観光客が行くような都市ではありませんが、私はハバロフスク墓地に行ったように、そこでも歴史上の死者たちに会う必要がありました。

それでは皆さん、次回までよろしくお願いします!


デジタル歴史家
ソンさん


【参考】



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