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人文学の究極目的のひとつは、暴力の否定である

今日の一文は…

阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

からお届け。

人文学の究極目的のひとつは、暴力の否定である。あるいは暴力を肯定するなんらかのロジックなりナラティヴなりを批判することである。たとえば人文学の一領域である文学研究なら、その末端で遂行される作品を面白く鋭くアカデミックに読むという行為は、たとえば――あくまでたとえば――こうした究極目的のひとつに奉仕するのでなくてはならない。

第9章 研究と世界をつなぐ 

もともと X で、「論文執筆について知りたいならこれ!」と宣伝されていたので買ってみたら、これが良かった…

何が良いかって、文系の存在意義を明確に打ち出しているところだ。

「文系って何の役に立っているの?」

というちまたの質問に、なかなか明確な答えを与えられないでいた。

ただ、この本を読む前から、文系と理系については知の対象が違うのだと言うことは理解していた。

つまり

理系は反復性の科学
文系は一回性の科学

と言うこと。

反復性の科学というのは、いわば実験の科学だ。

実験に関わる条件をコントロールして、何回も試行することができる。その中で法則性が見つかる。

そういった種類の知識がある。

他方で、この世界にたった一つ、ユニークなものを調べる、といった種類の知がある。

例えば、マルクスという人はユニークで、歴史上たった一回しか現れない。これから先に「マルクス」が再現されて生まれることはない。

他にも、北海道という土地も世界広しといえどそこにしかないわけで、この土地をなん度も再現するということはできないし、意味がない。

そういった、反復性を相手にするのか、それとも一回性を相手にするのかで知への接近の仕方が違ってくる。

昨今さっこんは、反復可能で実験できるものを「科学」というイメージが強いので、一回性の知へのアプローチが締め出されがちだ。

しかし、「科学」というのを

①結論を主張し、
②結論に至るまでの過程を
ガラス張りにすること

と定義するなら、反復性の知も一回性の知も「科学」という名で包括できる(この定義は川喜田二郎『KJ法 渾沌をして語らしめる』を参考にした)。

そういったことは、ひろゆきと東浩紀あずまひろきとの対談からも伺える。

ただこれではいまいち、文系がもっと広い意味において(そしておそらく本来的な意味において)科学の地位を復権したと言うだけで、文系のありがたみが依然いぜん感じられなかっただろう。

しかし、『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』に出会って変わった。

そうだ、文系というのは社会変革であり、暴力を減らす目論もくろみなのだ。

文学や歴史や思想というのは私たちにとって行動の規範を成しているものだ。

例えば、私たちは一人一人、脳というデバイスを持っていると考えてみてはどうだろう。

そのデバイス、ハードウェアはインストールされたプログラムに大なり小なり影響を受けて動いている。

そのプログラムというのが文学や歴史や思想だったりする。

しかしそのプログラムは完璧というわけにはいかなくて、時々、人々が不幸になるような挙動を取ることがある。

そうした時、私たちはプログラムの改善にあたるだろう。

今までどんなプログラムが走っていたのか調べ、デバッグするに違いない。

その営みがもしかしたら文系の学問なのかもしれない。

この本を読んでそんなふうに思えた。
そして文系の研究に、なんだか自信や勇気が持てたのだ。

目的が定まると人は俄然がぜんやる気が出る。

それを打ち出してくれたこのアイデアが、今日の一文。


それでは今日も

一語一笑いちごいちえでありますように

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