分ければ 区別すればいいってもんじゃない。自然界の境界はもともと曖昧なもの
本の中で「情報の透明性」「力の流動性」「境界と感情の開放性」を知った。それぞれ納得したうえで
のかなでも、今日話題にしたいのは、開放性の話をまとめたいと思います。
要は、相手との敷居を作るから問題が大きくなるという話。
あいつは●●で、私は〇〇だからこうしなきゃいけない。という壁や垣根があると問題が起きる。会社では、あいつは総務で、私は開発だから、相手の領域のことはわからなくていいし、こっちの領域には入ってくるなとなる。逆に勝手に入って手伝ってあげていると文句を言われる。そんなことはないでしょうか?
あいつは、経営陣で、私は、社員だからとかも一緒ですよね。一緒に会社を元気にそして、社会の役に立つために法人という組織でやっているはずなのに、なぜか自分の縄張りにしがみついて仕事を分けて考えてしまう。
欧米では、それは顕著で、就職の時からあなたは〇〇のスペシャリストだからほかのことはしなくていいという話なるし、ファーストフード店のセルフサービスでも、食べた後の片づけはしないという。なぜか聞くと、片付け専門のスタッフの仕事を奪っちゃいけないからと。
日本では、まだ会社のスタッフは、自分の仕事が片付いていて、誰から作業で困っていたら手伝ってあげるということもあるかもしれないが、それも近年なくなっているかもしれない。役所でも、縦割り構造があり、観光課と保険局は、同じようなことをやっていても、それぞれの予算でやることも多い。
いやこれは仕事だけではない。自分の土地の垣根を越えたら、問題が起きる。
昔は、日本家屋には、縁側があり、そこから人々は出入りしていた。その縁側には、近所の人がとれた野菜を持ち込んだり、作った漬物などを持ってきて、お茶を飲んだりしていた。もちろん家の人も近所の人も分け隔てなく。つまり縁側が境界を曖昧にしていた。勝手に留守だったらに荷物を置いていき、雨が降ったら洗濯物を家の中まで取り込んでいた。高度経済成長期あたりから、核家族になり、きっちり壁を作られたアパート・マンションにプライバシーとか、プライベートという言葉がもてはやされ、人と人の間にも壁を作ってきた。
さらにこれ国にも言えないか?あの人は中国人だから、韓国人だからアメリカ人だからと垣根を作ることで、仲間意識を作り、違う人を攻撃する。そもそも地球に境界を作ったのは人間であり、権力なのである。アフリカの国境なんか、直線で引かれていて、自然の山や川で自然に隔てられていた民族も、権力によって分けられている。分けられているから紛争も起こる。実は都道府県にも言えるかも。関西人だから東京の人だから、道民だから、九州だからと。。。。
また、LGBT の問題もそこに起因しているんじゃないかとさえ思い始めた。男性と女性と分けて垣根を作ることで、それぞれ「ねばならない」「男らしさ」「女らしさ」を作り出し、 窮屈になる。もっと多種多様で垣根が見えないぐらいグラデーションで良くないだろうか?男と女が一番端だとすると、より男性らしい女性がいたり、男性っぽい男性がいたり、だけでなく、ある部分はより男性だったり、ある部分は女性っぽかったりと性別の中にも、多種多様で、その存在を「認める=ゆるす」をしてあげるといいのではないだろうか?
障害者も健常者の区別もここに起因しているんじゃないかと思う。それぞれ特徴と思うといいのかも知れない。
所属を失くしていいと言っているわけではない。日本国籍を持っているから日本人ではあるけど、日本人であると同時に、地球人であり、垣根を取っ払ってゆるーくつながればいいのではないかと言っているのである。LGBTも、どんなひとでも、人として認めて その人の存在を尊重する事が当たり前のようにできれば、自分の考え方を、強制する必要も、逆に相手の意見を受け入れなければならないということも、なくなるのではないかと思っている。所属はたくさんしていい。というかもっとたくさんするほうがいいし、どこの所属もゆるーくつながったほうがいいのではないだろうか?
私だって、株式会社イーハイブに所属しているし、一般社団法人中小企業事業推進機構に属している。経営実践研究会や、eumo Academyにも属している。また、ひとみ会や東区ウォーキング部、しまだらにも、属している。それぞれの役割があって、でもそこに縛られずに、ゆるくつながればいいと思っている。
まあ、今までの考え方として自分自身は特別なことをしているわけではない。
これは、私が、育った環境から受け入れられやすかったのではないかと思っている。
小さい頃は5人兄弟の長子であったため妹や弟が生まれるたびに母の実家のお寺に預けられていた。お寺とは、町の人たちと垣根があってないようなもの。檀家の人は誰でも普通に入って来て、お茶を飲み帰っていく。祖父はその人たちと昼過ぎたら、酒を飲みかわす。留守にしていても、誰かがお茶を飲んでいることもあるw。もちろん、葬式の時は、檀家さんが台所を普通に使う。もちろん玄関が閉まっていれば、「留守げな(訳:留守だね)」と言って帰っては行くものの、玄関以外のカギはかかってなかったりしていた。もっと昔は、寺子屋だったり、公民館代わりだったので、出入りはもっと激しかったのではないかな。つまり町とお寺と境界線があいまいな中ですごした。
さらに、実家は、治療院、患者さんがいつ居ても、いつ来てもおかしくない状況。出入りするのが当たり前。下手すると、今でお客さんが横になって寝ていることもあった。家族でない人が、住んでいることもあった。お手伝いや、治療院の研修として、まあ、昔の丁稚奉公みたいなものだったのかな?
だから、家の中に知らない人がいてもあまりびっくりしなかったりする。
そうそう、そういう意識だったので、結婚した時に妻に驚かれた。 実家にちょっと寄ろうかなと思った時に、妻に、「連絡したの?」って聞かれて、私「ん?してないけど(なんのためにするんだろう? )」と返事をしていた。 よく話して聞いたら、そうか家は普通鍵もかかっているし、片づけなきゃいけないし、人が来るということは、構えておかなきゃいけないんだ。と学んだ。それが一般的だってことも学んだw
モノの所有だって同じことが言える。会社だってそう。あの人の会社だから、この人の団体だからとか、あの人の土地だからあれしちゃだめ、これしちゃだめ。と。もうちょっとゆるーくシェアできると、争いごとも少なくなるんじゃないかなぁ。
今、改めて手塚治虫 ブッダをもう一度読み返しています。これも所属がしっかり分かれているところから話が始まっています。自分ではどうしようもない身分制度があり、決して生きている間はそこから離れられない。だから、〇〇しちゃだめ、△△することが求められる。とかになってしまう。もしかしたら、人間という壁も、生き物からすれば小さな壁かもしれない。
で、最後自分に戻って
私は、今イーハイブという会社の経営者ではあるけれど、他の会社にも属していいのでは?ということで、先日の「平井良明貸し出します」に通じるのですが、でも、イーハイブにも所属しているし、他の会社にも所属しているし、その会社同士がゆるーくつながっているという状態が心地いいなと思っているのです。さらに、一般的には所有しているというイーハイブの社員もどうにかしてほかの会社や団体にも所属ができ、壁の開放性を実現できないかと第2弾に動き始めたいと思います。
まだ、第一弾が始まったばかりなので、少し先になりそうですがw