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私に現代美術は分からない。でも、展覧会に通うわけ。

私に現代美術は分かりません。

展覧会の作品説明を読んではみても、観念的で、哲学的で、高尚なテキストの羅列が多く、私のポンコツ脳ではチンプンカンプンです。

でも、私は現代美術の作品が好きなのです。

なぜ?

もうすぐ芸術の秋。
何度も現代美術展に通う、私の思いをまとめてみました。


現代美術との出会い

私は昔からアート好きだったわけではありません。
特に現代美術は、何や“けったい”で意味不明なもの
そう思っていました。

ある日、友人に誘われて、現代美術家ヤノベケンジさんの「MEGALOMANIA」展を観に行くことに。
当時、大阪吹田の万博記念公園内にあった「国立国際美術館」の移転前最後の展覧会でした。

会場にはヤノベさんの奇想天外な作品の数々が並んでいます。
突飛な形をしたメカや機械。まるでSFのような会場に、最初はふざけた妄想かと思って見ていましたが、そこには万博会場が解体されていくことへの作者の思いが込められていました。

私にとっても馴染みの深かった万博記念公園。
作者の思いに共感し、作品から伝わるメッセージを運よく受信することができたのです。しかも、遊園地みたいな展示が楽しかった。
それ以来私は、少しずつ現代美術展に足を運ぶようになりました。

ヤノベケンジ《SHIP'S CAT (Muse)》2021
大阪中之島美術館

私の現代美術の楽しみ方

以前、アート関係の仕事をしている知人に「現代アートの楽しみ方」を尋ねました。その答えは一言

「このド変態っ!て見てればいいんだよ」

はぁ!?ですよね(笑)

ただ私はその言葉を
「世の中には多様な見方や考え方があって、自分の価値観や尺度で決めつけてはいけない」と受け取りました。

大巻伸嗣《Plateau 2024》2024
金沢21世紀美術館

分からないから見る。

誰かによって価値付けられた「名作」と違って、現代美術の作品は、ずっと自由に向き合えます。

例えば、ゴッホやルノアールなどの名作を目にしたら大きな感動があります。ただ残念ながらタイムスリップはできないので、彼らが生きた時代の空気まではリアルに感じることはできません。

一方、現代美術は、私と同じ時代を生き、同じ事象を目の当たりにした人たちによる作品。例えば災害を、戦争を、今の時代を美術家はどう表現するのか。

作品は、現代社会を伝えるひとつのメデイアです。

自分と違った見方に興味があるし、
時に、深く共感ができるのです。

そして、現代の技法、素材、道具で表現された作品は、この世に生み出されたばかりのもの。見たことのない発見と驚きに満ちています。

オラファー・エリアソン 《星くずの素粒子》2014
大阪中之島美術館

ヒラメク

現代美術は非常識です。
私が考えもつかなかった色や素材の組み合わせ、そして表現。
いとも簡単に常識の縛りを破ります。

それが仕事に生きることがあります。

私は仕事で企画を考えるとき、机をガリガリ齧って考えつくことは、その時“いいね!”と思っても、多くの場合は“思い込み”
なかなか自分の殻から出られません。
日頃蓄えてきた知識や経験は、それだけでは生きないのです。

そんな時に現代美術の作品を見ていたら、
思いもしない点と点がつながりはじめる。
そして考え尽くして出てこなかったアイデアが、突然ポッとヒラメクのです。
まるで天から“降りてくる”ように。

そして、自分が知らずうちに狭い常識に囚われていたこと。
自分の視野がいかに狭いかをはっきりと気づかせてくれるのです。

目の覚めるような感覚に、喜びを感じます。

川田知志《築土構木》2024
京都市京セラ美術館

癒し

ひと口に「現代美術」と言ってもたくさんのジャンルがあります。
私は、時間と意識に耳を澄ますような静かな作品が好みです。

作品の世界に身を委ね
思ったままに感じたままに、
自分の心や感情を重ねていけば、
作品と自分、自分と自分の会話ができます。

たぶん瞑想のようなもの。

私はとりわけ、
李禹煥リ ウファンさん、
クワクボリョウタさん、
久門剛史さんの作品が作り出す世界と空間に強く心惹かれます。

日々の雑踏にかき消された
心のささやきをすくい上げるような
とても繊細かつ厳かな作品に
心の底から癒されます。

そして、作品を見た後には清々しい気持ちになれます。

クワクボリョウタ《鈴と太陽~ひみつ道具博物館~》

自分を知り、生きやすくなる

作品に向き合っていたら、
「あ、こういうとこに感動するんだ」とか
「このこんがらがってる感じ、今の自分だな」など、作品を通じて、自分を客観的に見ることができます。

現代美術は自分を知る、きっかけでもあります。

李禹煥《関係項―星の影》2014 / 2022 年
神戸県立美術館

そして私は、今自分に見えている景色が、隣の人と同じかどうか自信がありません。
同じ人間であっても、景色(光)を受ける網膜が違うから。
私が見えている青色と、隣の人の青色はきっと微妙に違っている。
そう思うのです。

「違って当たり前」ということを知る。

同じものを見ても、人によって見え方は異なる。

自分には思いも寄らない視点、感覚、捉え方が、この世の中には存在する。
答えがないことだって世の中にはある。
その事実と向き合うこと。
その事実を楽しむこと。

そうすれば、多様なものを受け止められるようになってきて、自分も生きやすくなっていきます。

みんなが「私」であるために

世の中の価値観は多様化しています。
性別、国籍、学歴など
これまで私たちを区切っていた境界線が曖昧になっています。
そして、どう生きるのか。
家族間や人生観も多様化しています。

そんな価値観が揺らぐ多様化の中で、アートを鑑賞するということは、生きていくために、より良い社会のためにとっても大切なことではないでしょうか。

私は、「衣・食・住・美」と思っています。

だから美術家の皆さんは、社会にとって欠くことのできない存在
みんながアートを鑑賞しやすくなることも含めて、
もっともっと文化に対する支援を手厚くする必要があると、私は考えています。
(*日本の文化予算はフランスや韓国の8分の1程度)


他人に価値づけられたものだけに縛られる生き方は窮屈です。
それは「みんな」であって「私」ではない。

村上隆《お花の親子》2020
京都市京セラ美術館

SNSだって、お金をかけて広告を打てば閲覧数を稼ぐことは可能です。
必ずしもみんなが「正解」だとは限らない。

このnoteもそうです。
「スキ」が少なくてもステキな記事はたくさんある。
他人の評価よりも自分がどう感じるかが大切だと教えてくれます。

アートを通じて、みんなが「私」でいられる社会になったらいいなと、私は願っています。

さあ、次はどんな作品に出会えるかな。

Yotta《花子》2011
京都・東本願寺前


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