空想の手を止めて
ここ最近、空想を抱くことがなくなった。歩いている時に、取り巻く空気が膨張していて、自分だけがこの世のものではない感覚になることや、逆に、澄み渡った空気の中を自分の輪郭だけが殊の外はっきりして、自分の行動一つ一つが監視されているようなプレッシャーがかかっている感覚もなくなった。
何よりも、創作物が生み出せなくなったことだ。
私は、創作BLや創作百合と呼ばれる、所謂オリジナル作品をずっと描いていた。
彼らを描くにあたって、コンセプトは「理想的な平和な世界のヒューマンストーリー」。一人を除いては、全員家庭環境の不和はないし、ドメスティックなことをする・求める人間もいない。
そんな平和で、誰も傷つけようとして傷つける者など存在しない、理想の世界を描き続けていた。
そして最近、ようやく気付いたのだ。そんな理想の世界は、「私の願いの世界」だったということに。
キャラクターは、みんな頭が良かった。偏差値の高い高校に通っている設定にした。それは、私が学校での成績が悪く、家庭内では「バカだから姉たちの高校(偏差値は中間層)には行けない」と言われ続け、劣等感を抱いていたから。
みんな、家庭環境が悪くなくても、他人のことを一心に考え続けられる思慮深いキャラクターだった。それは、芯のしっかりした人間に、私に気付いて、見続けてほしいと願っていたから。
昔から、「この子達は生きているから、私が描くなど野暮だ」と、キャラクターを人間として扱っていたのだが、きっと本当のところは、私自身の話とこの子達の境界がハッキリしていない状態から目を背けたかったのだろうと思う。
この子達を生きた人間にしたかった。たかがキャラクターという、内臓など存在しないと言われてしまうような、薄っぺらいだけの扱いをしたくなかった。
きっと、自分という人間性を否定したくなかったからなのかもしれない。
ようやく私は、自らの「寂しい」「誰か一緒にいてほしい」という声を認められるようになった。
とめどなく願いを叫び続けていた内なる自分の声を、何重にも覆う心の仮面たちがだんだんと外されていき、「寂しい」という声を空想という孤独の世界に乗せることを選択しなくなったのだ。
これでキャラクターたちは、真に「一人の人間」として解放されたことだろうと思う。
一人の人として、呼吸をし、考え、自分なりの人の愛し方をしていく。
そんな「他人」のことを、私が「作る」という気持ちで描き続けることなど、なんと烏滸がましいことだろうか。
私の創作の原動力は、寂しさであり、そんな寂しさを受け止め、「マンガな絵」への諦めを選択した私はもう、オリジナル作品の活動を能動的にはすることはないだろうと思う。少なくとも、現時点では描こうとすると手が止まってしまうのだ。
しかし、誰かが続きを描いてくれと言ってくれることがもしあるのならば、単純なので描いてしまうと思う。需要への嬉しさというものは、どこまでいっても変わらないものなのだ。