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美術室での思い出と、想いの灯篭が天に放たれる光景のこと
高校の美術室でイーゼルを並べていた友人は、いつも何かに憑かれたように人物を描いていた。現在は絵画ではない創作を仕事としていて、絵は一切描いていないとのこと。
30代のある時に、幼少時のトラウマが消えて、同時に全く絵が描けなくなった。描こうという気に全くなれなくなったということを話してくれた。
「憑き物が取れた感じ」と彼女は穏やかに笑った。
彼女の中の苦しみが、絵に表現されることで一つ一つ昇華されていったということでしょうか。
数十年ぶりに美術部仲間と海辺のカフェで再会できるなんて、思いもしなかった。
もう数十年経っているのに、美術室での時間は今でも、今ここにあるように感じることができます。
今もほぼ同じ絵の具の匂いの中にいるからじゃないかと自己分析。
前述の友人は周囲の音が聞こえなくなるくらい没入するタイプだったので、羨ましくもあったのだけれど、ず〜っと喋りながら描く友人もいた。
彼の場合は、頭の中のおしゃべりが、声になってダダ漏れで、黙ってると描けないのだそう。面白いけどたまにちょっとうるさい(笑)
「あ、そこ青で行く?青といっても色々あるけど、これ?いや、こっちでしょう」と、まるで頭の中の誰かとしゃべっているよう。
あと、好きな先生に褒められるとハイテンションで大気圏まで飛び上がってしまいそうになり、好きな先生が他の人を褒めているのを見てしまうと、地球の核まで落ちていってしまうような先輩がいた。
感情の陰と陽を行き来する振り子のようなものがあるとしたら、振り幅がとても大きい。
デフォルトで「陽」な先輩もいた。ネガティブなことを言っているところを見たことがない。
振り切りっぱなし?みたいな話をその先輩と話したことがある。
「うん、ニュートラル(中庸)が理想なんだけど、降りてこれない感じ。」
「あと、俺の場合、両親がいい感じに褒めて育ててくれたから、この調子だけど、恵まれない環境で育ったら、逆の方に振り切りっぱなしだったかも。」
この二人の先輩は社会に出ても「変人」という特別枠を謳歌した。彼らはそれをレッテルとは認識しない。
しんどい思いをするのは、彼らほど突き抜けていない。「あれ?ちょっと変?」という他者からの視線に気づいてしまうほとんどの人々でしたよね。
本来の自分ではない振り幅に調整し続けなければ、仕事に就けないというのは、美術部員に限った話ではなく、私の世代の多くが当たり前の我慢としてやってきたことだと思う。
どうも最近・・・
「その振り子の幅を、自分の幅に戻しなさい。
そして振り子の軸に戻っていらっしゃい。」
という何者かの声がします。
テレビドラマの苦難続きのヒロインに自分を重ね、浸っていられる人には聞こえていないようなのだけれど。
絵をオーダーしてくださるクライアントさんたちそれぞれが、そのようなことを意識しているように思うのです。
良くも悪くも慣れ親しんでしまった、我慢やネガティブな思考癖は、祓おうとして取り外せるものではなくて、実のところ引き止めて握りしめている自分がどこかにいるのかもしれない。
冒頭の絵を描く必要がなくなった友人のように。
「可哀想な自分にしがみついていたのは自分だったんだ」
と彼女は言った。私の中にもそういうのはあると思う。
「もう満喫したからさ、そろそろ解散しようか?」
と自分の中の「悲劇の部屋」に語りかけてみるけれど、
いつのまにかその部屋は、もぬけの殻になっていた。
気取って「いつのまにか」とか書いたけれど(ごめんなさい、笑)
私の場合は、彼女のような壮絶な悲劇ではなく、今となっては喜劇(苦笑)で、消えて行ったタイミングも覚えています。
私の場合は、絵を描くことではなく、別のことが全くできなくなりました。
あんなに必要だと思って握りしめていたのに、ふわりと飛んでいった。
あの感覚が集合意識でも起きている気がする。
天体の方の動きも、今日あたり、なんだか「抜けて」いく感じがします。
大勢の人々が、灯篭を天に放つようなビジョンが見えたので、この記事を書きました。
美しく天を満たし、消えていく様子を・・・
受注分の絵を仕上げたら、描いてみたいと思います(忘れないぞ!笑)