簡素な文章の薄皮一枚下で蠢くもの 映画に影響を受けすぎた反省と、僕の文章の好み
僕は文章は良し悪しではなく好き好きだと思っている。そして自分と似た流派を読むのも、まったく違う流派を読むのも好きである。僕自身は「純文学/エンタメ」という分け方をしないように意識している人間なので、小説に求めるのは「人間の実相が描かれているかどうか」だけだ。ちなみに相手が純文学、エンタメという言葉を使った場合にのみ少しだけ譲歩してそういった言葉を使うこともあるが、僕としてはこういう言葉を使っている人本人もどこまでわかって使っているのか疑問である。同じ思いを抱いている人は、芥川龍之介と谷崎潤一郎の議論『文芸的な、余りに文芸的な』『饒舌録』を読んでみるといいだろう。純文学の特殊性を表現しようとする芥川龍之介がいかに行き当たりばったりで喋り、ぜんぜん純文学とはなにかを提示できていないのがわかる。
よって、僕は純文学というのは「ただの言葉」と定義している。形式だけ今時の純文学でまったく人間の実相を描けていない芥川賞作もあれば、東野圭吾の一部の作品や京極夏彦、水上勉、松本清張、有吉佐和子や姫野カオルコといったエンタメに分類されながら人間と人生の一端をしっかり書けてる人もいるのだ。僕はとにかく、昨今の妙な「純文学作家になりたい、純文学!純文学!」というのがぜんぜんわからない。
まあ、話が逸れた。今回は文章表現の話だった。
世の中には自分の作風にひきつけてしか物事を測れない人もいるが、僕はなるべくそういうことをしないように心掛けている。できているかはわからないけれど、僕はある程度、ロジックで自分の作風を作ったので、生理で合う合わない、好き嫌いと言わず、どんな技法が使われているのかを分析したいタイプだ(ギターでもっとも好きなのも、楽曲の分析だった)。
そんな僕が好きな文章のスタイルは、極力簡素にして悟らせる作風だ。これは古くはヘミングウェイが実践し、東野圭吾も『白夜行』で主人公2人の心理描写をまったく書かないという実験的な作品を書いたが、これが物凄く好きなのだ。
しかし、考えてみるとこの「説明を極力排して行動と台詞で表現する」というのは小説本来の作風というか技法ではないよなと思う。これは小津安二郎やクリント・イーストウッド、そして北野武が得意とする演出方法だ。
僕は映画が大好きなので、無意識にこの手法を模倣してしまったのだろう、自分の作品は言葉が足りなすぎる。言葉そのものを楽しむという小説の在りかたからかけ離れてしまっていた。
僕が尊敬する作家のひとり海老沢泰久は、選評でこんなことを言われている。
「一見、拙そうな文章を意図的に積み重ねながら、男女のいわくいいがたい、非論理の論理とでもいうべきところを巧みに描き出している」(渡辺淳一)
「基本語彙を決め、辞書から取り出してきたような美辞麗句を避けて、普通の言葉で人生を書こうとする方法論が、この短編にはきっとあると思います。これは目立たない実験で、誤解を受けやすい実験ですが、そこのところは買いたいと思います」「二千語か三千語程度の平易な言葉だけで人生の真実を描き出そうとする氏の文体改革の熱意に深い敬意を抱いている(井上ひさし)
「海老沢さんの文章が好きだ。気取らない、大仰に騒ぎたてない、文学臭のある言い廻しを排除する、手垢のついた言葉を使わない剛直な文章で、つまりはこれがハードボイルドなのだが、私はすぐにヘミングウェイを連想する」(山口瞳)
はぁ~、こういうこと言われたい!でも、それでもやはりこれからはもう少しだけ言葉を濃くしようと思う。映画もマンガも演劇もある時代に闘っていくには、言葉を尽くすしかないのだから。