読み継がれるべき物語「赤毛のアン」の世界へ
みなさん、「赤毛のアン」を読んだことがありますか?
私はこれまで、「赤毛のアン」と言えば昔に見た高畑勲氏のアニメーションで観た記憶くらいしかありませんでした。
しかし、NETFLIXのドラマ「アンという名の少女」のシーズン1を観てはじめてその世界観を知り、その世界に一気に惹かれてしまったんです。そのことをツイートすると、本の翻訳者、松本侑子氏から”いいね!”をもらったことをきっかけに、この歳になってようやく読んでみることになったのです。
そして、読み始めるや否や、素晴らしいアンの世界に引きこまれていくことになったのです。
赤毛のアンの舞台と時代
ルーシー・モード・モンゴメリによる「赤毛のアン」が初めて出版されたのは、1908年のアメリカでした。
物語の舞台は、とても自然豊かで、緑と花の香る架空の地、アヴォンリーというところです。そこのモデルは、モンゴメリが育った、カナダの東端、セントローレンス湾に浮かぶ島、プリンス・エドワード島と言われています。
イギリスやスコットランド、アイルランドから移住してきた人たちが多く、物語の中にもスコットランド及びアイルランド共通のケルトの文化が色濃く描かれています。また、アンはスコットランド系であり、親友のダイアナはアイルランド系であることが、描写により読み解くことができます。
時代は19世紀末で、まだ女性の参政権のない時代です。物語の中でも、女性の生き方に触れられており、近代的な思想の萌芽のようなものがうかがえます。
モンゴメリ自身の育った時代背景の投影でもあり、その中で生きるアン・シャーリーは、等身大のモンゴメリのようにも思えます。
アンもモンゴメリも、教養を身に着け、女性の社会進出への道を歩んでいくのですから。
物語は、アヴォンリーにあるグリーン・ゲイブルズ(緑色の切妻屋根=農場の屋号)に住む兄妹、マシュー・カアスバートとマリラ・カスバートのもとに、みなしごで施設にいたアン・シャーリーがもらわれてやってくるところから始まります。
男の子を望むカスバート兄妹でしたが、何かの手違いでアンという痩せっぽちな女の子が来てしまうのです。
アンの成長
アンが初めてグリーン・ゲイブルズに来たのは11歳の頃で、とても感情が豊かな少女でした。
おしゃべりで、夢見がちで、喜びと哀しみ、そして怒りといった感情の起伏の振り幅がとても大きな女の子でした。
泣いたり笑ったり、怒ったり、とんでもない失敗をやらかしたりと、マリラの手を焼かせることばかりしてしまいます。
マリラは厳しい性格の為、アンに対してつらく当たりますが、いつしかそんなアンを愛してやまなくなるのです。
一方、口下手で引っ込み思案なマシューはいつだってアンに優しく接し、アンの味方になってやります。
物語では、そのようなにぎやかなアンも、いろんな人に愛されながら、段々と聡明な大人の女性に成長していくのです。
愛の物語
赤毛のアンは、児童文学として捉えられがちですが、決してそうではありません。
心が豊かで、聡明なアンの魅力は、彼女の周りの人を惹きつけてやみません。みなしごで、誰からも愛されることのなかったアンは、グリーン・ゲイブルズに来て初めて人の愛情に触れ、愛され、そして愛することを知るのです。
赤毛のアンは、大きな愛と豊かな心に満ち溢れた、素晴らしい物語なのです。
アンが、大学の奨学金を勝ち得て、グリーン・ゲイブルズに戻った際に語られるマリラのアンに対する本当の気持ち、そしてマシューの言葉はとても感動的です。
懐かしいマシューはアンに言います。
男の子と間違えて連れてこられた女の子が、いつしかマシューとマリラにとって、かけがえのない愛しい娘になっていたのです。
「赤毛のアン」を読み終えて
赤毛のアンを読み終えて、アンの住むアヴォンリーの自然豊かな世界が私の心の中に宿ったような気がします。
アン以前とアン以降。アンの世界を知ったことで、私の感受性はとても豊かになったように思えます。
アンとの出会いはとても貴重な出会い。できることなら、もっと早くにこの物語と出会いたかった、という思いです。
おわりに
私が読んだ「赤毛のアン」は、松本侑子氏による2019年版の翻訳です。
松本氏の多大な労力による注釈が設けられ、そのおかげで「赤毛のアン」の世界の解釈がより深いものになりました。セリフや表現の出典や時代背景、キリスト教との関りなど、非常に意義深い注釈が加えられています。
「赤毛のアン」原題は「Anne of Green Gables」
この物語は、時代を超え、そして世代を超えて読み継がれていくべき素晴らしい物語です。