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たった一度だけ、祖父に叱られた夏の日のこと

私の両親の故郷は、瀬戸内海に浮かぶ島だ。
私が幼い頃は、夏休みになると母方の祖父母の家で過ごし、毎日のように島の海で泳いだ。

浮き輪でぷかぷか浮かんだり、幼いいとこを抱っこして波打ち際で遊んだり。
休憩には浜で砂遊びしたり、スイカを食べながらタネをプープー飛ばしたり。

真っ黒に日焼けして、肩や背中、鼻の頭の皮がピラピラむけてしまっても、平気で毎日海へ行った。


思い返せば瀬戸内海の海はバスクリンのように緑色っぽくて、いつも美しくて穏やかだった。
しかし私が一番印象に残っている海は、祖父に叱られた日の灰色の海だ。

40年以上も前になるが、あの日のことは色まで鮮明に覚えている。



*****

朝は祖母の味噌汁の香りで目を覚ます。
鍋いっぱいの祖母の味噌汁は、あっという間に孫たちのお腹に、きれいに収まってしまう。

煮干しでとったダシと祖母が手作りした味噌で作った祖母特製の味噌汁は、とにかく絶品なのだ。
ふわふわと柔らかい愛媛の油揚げが、私は最高に好きだった。


夏休みになると、小学生だった私と妹は、関西の自宅から遥かに離れた瀬戸内の祖父母の家に2人で行き、約1ヶ月くらいを島で過ごした。
それは幼い2人には大旅行だった。


私たちが島に行くと、島に住むいとこたちも祖父母の家に全員集合する。
孫たちが合宿のように、祖父母の家にずっと泊まり込むのだ。

親から離れ、皆が開放感でいっぱいになり、朝から晩まで庭やみかん畑を駆け回って遊び呆けた。

お天気がよければ、祖父母や叔母たちが毎日のように海に連れて行ってくれる。

当時はおおらかな時代だった。
水着姿で浮き輪を腰にセットした私たちは、祖父の軽トラの荷台にしゃがんで乗り込み、海へと向かう。

もちろん子どもだけでは危険なので、ずっと祖父母や叔母たちが砂浜から私たちを見ていてくれた。

海から祖父母の家に帰ってきたら、庭先の水道のホースで体についた砂を軽く洗い流し、その場で裸ん坊になってから全員が風呂へ行く。

風呂から出たら、アイスを食べて昼寝をして。
起きたらまた外で「だるまさんがころんだ」や「鬼ごっこ」をして遊んだ。

大きな木の切り株のようなテーブルを囲んで夕飯を食べて、夜になると、蚊帳の中でみんなが雑魚寝して眠った。

夏休みの宿題を忘れてしまうほど、私の小学生時代の夏は、毎日を大自然の中で遊ぶことでいっぱいだった。



あれは私が小学5年生の夏だった。

お盆を過ぎたある日、そろそろ波が荒いので海水浴はやめたほうがいい、という祖父の言葉に私たちが駄々をこねて、もう今日で最後、という約束で海水浴に連れて行ってもらった。

その日は薄曇りで少し肌寒くて、海がいつもよりも怖いような色をしていた。

海辺には私たちだけしかいない。

海で遊んでいると、波打ち際で幼いいとこの世話をしていた祖母が、クラゲに刺されてしまった。

「ばあさんが足をクラゲに刺されたけん、もういなにゃいかんけんの帰らなくてはいけない。」

と祖父が声をかけてきたのに、私が「えー、もう少し遊びたい!」とわがままを言ってしまった。
いとこたちも、私の真似をしてもっと遊びたいと言い出す。

祖父はいつも優しくて、怒ったり叱ったりしたところを見たことがない。だからついつい私も甘えていたのだろう。
祖母も、

「ええわい、ええわい、たいしたことはないけん、もう少し遊んだらええわい。」

と、痛みに耐えながら、笑顔でそう言ってくれた。

次の瞬間、祖父が聞いたこともないような大声で私に怒鳴った。


「琲音、ばあさんがこんなことになっとんのじゃけん、帰らにゃいかんじゃろ!1番お姉ちゃんのおまえが、ちゃんとゆうこと聞かにゃ、いかんじゃろ!」


私は祖父の大声にびっくりして、思わず泣き出してしまった。
いとこたちも次々に泣き出す。
いとこの中で1番年上の私が、祖母の状況を理解して祖父の言うことを聞くべきだった。
自分がすごく情けなかったし、祖父に叱られたことが悲しかった。

みんなを浜に連れてきて、すぐに帰る支度をした。
祖母は「私はええけん、子どもたちがかわいそうじゃけん。」と言っていたが、刺された足がかなり痛々しかった。


後からわかったのだが、祖父は、孫の私たちがクラゲに刺されることを心配していたらしい。預かっている大切な孫たちにケガをさせないよう、ずいぶん気を遣っていたのだろう。

それに、祖母の足もかなり腫れていて、心配だったんだと思う。


その後のことは曖昧にしか覚えていないが、あの日の海での祖父の怖い顔が忘れられない。
後にも先にも一度きり、祖父から叱られた記憶はあの夏の海でのことだけだ。

「よその人に迷惑をかけるな」と祖父からよく言われたが、いたずらして何かを壊しても、ケンカしても騒いでも、全く叱ることのない人だった。

左官の仕事で疲れて帰った時も、着替えて祖父が居間に座ると、必ず孫たちが祖父の膝を奪い合った。
両膝に小さな孫を抱っこしながら晩酌して、いつも私たちを笑って見ていた優しい祖父だった。

そんな祖父が、危険から大切なものたちを守る時だけは声を荒げた。

そして、痛い想いをしている人を無視してわがままを通すことは、子どもだろうと孫だろうと、祖父は許さなかった。


叱ることは、本来はそのくらいでいいのかもしれない。

瀬戸内海の海辺で私が祖父から教わったことはそういうことだったんだ、と自分にも孫ができた今になって、わかったような気がしている。




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