オルテガ『大衆の反逆』⑤
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4章「生の増大」に入っていく。
オルテガは現在の世界では過去に比べて、生が飛躍的に増大したと言う。具体的にはこういうことだ。
このことに異論のある人は多くないだろう。科学技術の発達は、地球を狭くした。目に見える範囲が広がったとも言える。そして私たちは、この空間的・時間的世界に生きる中で、スピードというものをとても重視している。
本文の注釈にはこう書かれている。
「タイパ」という言葉が思い起こされる。若者特有の現象のように思われているこの「タイパ」は、実は現代の本性に根付いたものと考えられるだろう。
オルテガは、18世紀の人間と現代(20世紀)の人間が商品を買うシーンを想像する。この二人が同じくらいの資力だった場合、現代の人間の方が、はるかに多くのものの中から商品を選ぶことができるだろうと言う。つまり、より現代の人間の方が、より多くの選択肢をもっているのだ。
つまり、購入可能性の増大は、生の増大につながっているということだ。なぜなら私たちの生は、二つ目の引用にあるように、自分にとって可能なものについての意識だからだ。
言い換えるなら、企投性ということだ。人間は自らを可能性の内に投げ入れるという仕方で生きているが、その可能性は被投性という形で制限されている。だから、買えるものの選択肢が増えたということは、生そのものにかかわる事態なのだ。
なんだかまんまハイデガーの世界内存在のようだ。オルテガの方が少し年上だが、この類似は偶然ではないだろう。同じ時代の空気を吸っていたからこそのものだと思われる。
また、スポーツの記録はどんどん更新されている。このことは必ずしも人間の身体的能力が上昇していることを意味しないが(それどころか低下している部分もあるだろうが)、それでも今までにできなかったことができるようになっているのは事実だ。
科学技術の発展は言うまでもない。原子が最も小さい物質と考えられていた時代はとうに昔のものとなり、今では素粒子が発見され、(よくわからないが)ダークマターやダークエネルギーとかいうものも見つかっている。これは単に新しい発見であるという以上のことを意味するとオルテガは言う。つまり、人間の見る目が、知的能力が向上したのだ。
たしかに、理念を分離するとは、より精密にみるということだ。より精密に見ると情報量が増える。この観点から知性を計るのは、一理あるのかもしれない。巷では「解像度が高い」などといわれるが、これも「ある現象をより精密にみている」ことを表しているだろう。
これらのことからオルテガは、しかし、現代の生が昔よりもより良くなったと言っているわけではない。
生は増大したが、それによってハッピーな世界になったわけではない。オルテガは安易な「(西洋の)没落論」を避けるが、しかしやはりそういった面があることは否定しない。
多くのことが可能になり、精密にものを見れるようになったからこそ、先行きの不透明さと、あらゆることが可能であるという事実が浮き彫りになってきたのだ。これが書かれたのは1929年だが、第二次世界大戦が起こったのはそのすぐあとだった。
ここでアドルノの有名な言葉である「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を思い出すのは不自然なことではないだろう。この言葉の前後はこうなっている。
本がないので、あるブログからひっぱってきたが、元の文章はちくま学芸文庫の『プリズメン』に入っている(らしい)。
「絶対的物象化」とは平たく言えば「モノ化する」ということだと思う。資本主義社会のなかでは、とりわけ商品化が当てはまるだろう。たとえば本を書くにしても、売れなければ仕方がないから、売れるような本を書くように誘導されていく。こういう「モノ化」が社会を覆っているというのが、アドルノが指摘している事態だろう。
オルテガに戻ると、商品が増え、つまり購入可能性が増えたと言われていた。この「モノ化」が一気に進んだことで、「おのれ自身を支配していない(オルテガ)」、あるいは「いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている(アドルノ)」という事態が発生しているのではないだろうか。
「おのれ自身を支配していない」とは曖昧な言い方だが、とはいえ伝わるところはあると思う。多くのことが分かるようになり、可能になったはずなのに、すぐ近くの未来すら想像できない状況にあるのだ。オルテガはこの事態を「生に真摯に向き合うようになる」的な理由から肯定的に受け止めているが、これに関してはなんだかあやしい気がする。
次は第5章。