オルテガ『大衆の反逆』要約④(時代の高さ)
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さて、第3章「時代の高さ」に入っていく。この「時代の高さ」とはいったい何だろうか?
たとえば、「昭和は活気があって、良かった」「平成の失われた30年を経て、日本は没落しつつある」などと言うときに、「時代の高さ」というものが表れている。
また、たとえば「21世紀になってもまだ戦争しているのか」「この令和の時代に……」などと言うときにも、この概念が関係してくる。「戦争なんかはこの時代にはふさわしくない」という感覚がここにあらわれているのだ(残念ながらそう感じたからといって戦争はなくならないが)。
「昔は良かった」とか、「今は良い時代だ」とかひとは言うわけだが、これもまた同じような感覚に基づいている。このような自分の時代と過去の時代の比較は、いつも同じ結論に至るわけではないが、一定の傾向を見つけ出すことはできる。
なんとなく思い当たるところがあるのではないだろうか。日本だったら高度経済成長期とか、アメリカなら1920年~の「狂騒の20年代」などはこれにあたると思う。そういう気持ちが人々の中にうっすらとあるから、「Make America great again!」とか、「日本を取り戻す!」とか言われるわけだ。
しかし当然、「時代の頂点」のようなものに到達した(と感じた)としても、時代は続いていく。
われわれは近代以降の時代を生きている。とくに西洋世界(日本も含まれるだろう)はそうだ。
(笑)
近代と近代以前には大きな違いがあるとオルテガは言う。
ニーチェの言葉に、「我々はもはや(他のいかなる時代とも違い)〈真理〉が存在しないことを感じている。デカルトは、懐疑をしているときでも真理の存在を疑わなかったのだが、今はそうではない。」みたいなものがあったが、それと似たような話だと思う。
社会全体が、あるいは世界全体が目指すべき方向が見失われている。社会主義の理想は破れたように見えるし、ファシズムもそう。国際協調で平和を目指すのは現在進行形で裏切られているし、デモクラシーの理想もずいぶんあやしい。経済大国を目指す気運なんてとうに失われ、少子化が加速するなかでとりあえず目の前の資本主義を乗りこなすしかない。そういう世界に私たちは(とりわけ先進国の人は)生きているのではないだろうか。
ちょっと話がマクロ的すぎる気もするが、おおむね間違ってはいないだろう。オルテガは私たちの時代を簡潔にこう表す。