箱根駅伝を目指していたあの頃(1月3日)
僕の母校大東文化大学が箱根駅伝で9年ぶりに10位に入り翌年の参加資格であるシードを獲得した。記憶が確かなら僕が大学1年生の頃からシード権を掴み損ねている。大学1、2年生の頃僕はここの駅伝部と活動を共にして毎日練習していた。それはもう地獄のような日々で、朝は5時半から朝練があり午後もみっちり練習をしていた。朝晩合わせて30キロ前後の走行距離を週6日でこなす、ちょっともう想像がつかないような生活である。同じく部活動に所属していた仲間も部活をやるために大学を選んだような人ばかりで授業よりも練習が主体の生活を送っていた。
この生活を送っていたときは24時間の生活が走るためにあり、バイトはおろか大学生なのに深夜までカラオケをしたり友達と遊んだりすることが一切できなかった。僕の実力は下から数えた方が早く毎日の練習についていくのが必死で正直やっていて全然楽しくなかった。頑張ろうにももう足は限界を迎えていて、気づかないふりをしてさらに練習を積むと今度は疲労骨折に繋がってしまう。怪我をしないようみんなうまいことサボりながら練習を積んでいたのだが、その中でも一流の選手はギリギリのラインをうまいこと見極めて黙々と練習を積んでいた。その姿を見て僕は「この人には絶対に勝てない」そう思った。それからというもの練習の時間が近づいてくるのが恐くなり、夜眠れなくなり、練習を無断でサボるようになり、このまま続けるのは無理かもしれないと思い2年生の終わりに辞めるという決断をとった。当時まだ走ることしか脳がなかった僕には人生を左右する一大決心だった。
ここのステージで戦うには好きなことや邪念を一旦捨てて練習に取り組む必要がありそれは僕の中で、人間らしい生活を一度捨てることを意味する。そんな過酷な環境に身を置く彼らでも僕の大学は在学中一度も箱根駅伝10位のシード権を獲得することができなかった。学校内であんなに早いと思っていた人たちがまるで歯がたたない。青山学院大学や駒沢大学の強さは大学駅伝を経験した僕にも想像つかなかった。
あれから9年という時を経て監督コーチは代わり、チームには留学生が加入し、それに伴い練習内容もガラッと変わったことと思う。それでも目指す目標はあの時と変わらずにその目標を達成して泣いている選手の姿を見た時にいろんな感情が胸の中を巡った。おめでとうと素直に祝いたい気持ちと同時に辛かった記憶まで蘇り、選手に同情と尊敬の感情が入り混じりもうぐちゃぐちゃで訳がわからない。
こんなにも無我夢中になれるものがあることが羨ましく写る。僕は駅伝を辞めてからそれまでできなかったいろんなことを経験したつもりだが、あの時ほど夢中になれるものにはまだ出会っていない。あんなに苦しいことが続けられたはずなのに何も続けられなくなってしまったのではないかと不安にもなった。将来この経験があってこその今だと箱根駅伝を見ながら言える日が来るといいなと思う。