フィクションと現実の関り
日記です。
先日、『僕が僕であるためのパラダイムシフト』というマンガを読んだ。
とても面白かった。
2つ目のリンクから全て無料で読んだ後、Kindleで買って読み直すくらい面白かった。
簡単に言うと、幼いころの虐待や激しい受験勉強を経て10年来の「鬱」に悩まされていた主人公のSくんが、アドラー心理学や催眠療法に出会い、自分の過去や「鬱」への考え方を変えていくという話。
この「考え方を変えることによって鬱の症状が寛解していく」というところがやっぱり「へぇ~~~」と思わされるところだったし、タイトルの「パラダイムシフト」という言葉と重なっていく部分なのだと思う。
著者のEMIさんの体験がもとになっているフィクション、というところも重要で、あくまでもフィクションなのだけど、実感のこもった描写がたくさん出てくる。
「過去は存在しない」「今の自分が今の目的のために過去を持ち出している」とアドラー心理学を解釈して、同じ考えを持つカウンセラーと出会い、催眠療法を受ける中で「自己愛」を実感することで鬱が寛解に向かうというところも「へぇ~~~そんな方法があるのか」と思った。
このあたり、私のだいすきな『彼氏彼女の事情』とも通ずるところで、「17巻くらいの有馬くんみたいな体験している人がいるんだな!!」と驚いた。
そして人におススメした翌日、Twitterで新たな情報がいくつか出てきた。
・作中に登場する催眠療法のカウンセラー・マエダ先生は実在し、相談費用は17万5千円。
・臨床心理士や公認心理士など国家資格を持たないカウンセラーの診療・施術は警戒した方が良い。
・自分の判断で断薬→症状悪化→入院という例は少なくないから自己判断の断薬は危険。
・「鬱」の原因や症状は人によって全く違うので、「これで治る!」というものではない。
・作中で紹介されている「過去は存在しない」「トラウマは存在しない」という言葉はアドラーのものではない。アドラー心理学をおおざっぱに解釈した人の言葉である。
・作中、主人公Sくんが「鬱」を持つ友人に対して「治さない決心をしているんだな」と判断する描写がとても残酷だ。「鬱」の責任を本人に求めるような考え方であり、同じ考え方が世間に広まってほしくない。
まず前田先生の治療費の高さにびっくり。17万。いまどき手取り月給17万以下の仕事も珍しくないというのに。
ただ、この金額を「いつまでもカウンセラーと電話し放題・寛解の可能性がある施術」とした場合には妥当とする意見もあった。そして主人公が10年以上通院や投薬にかけた(そして改善に至らなかった)金額と比べれば半分以下の値段のようだ。
しかし高いよな。私にはできない博打だ。
「カウンセラー」を名乗るのに資格が必要ないということも知らなかった。「鬱が治る」ことを謳った高額の民間療法がたくさんあるということも。
考えたらあるに決まってるよな。そういうものの中には弱っているものを食い物にする類のものがたくさんある。それは悪い。すごく悪い。ゆるせん。
鬱や発達障害の多くが脳の機能・脳内物質に関わるものだということは知っていたし、私は読んでいて「これで治る!」というたぐいのものとは思わなかった。あくまで1人称の物語だし、個人の心の動きについて描かれており、「私は治った」と感じたという話だと思った。
作中で紹介されている重要なフレーズ「過去は存在しない」がアドラーの言葉じゃないの!?そこが一番驚きだ。
これは『嫌われる勇気』のアドラー解釈で出てきたフレーズらしい。正しくは「トラウマも含め、過去に囚われてはならない」というかなり穏健なフレーズ。それはそうだな。ハッピーな気持ちとは程遠いもんな。
友人の描写に対しては後述する。
「結構たくさん問題が出てきたのでもうおススメしないほうが簡単だな」とも思ったけれど、でも、私が感動した部分・作品の優れた部分というのも確かにあって、「素晴らしいところを全部投げ出すのは嫌だな」という思いの方が強く、問題と向き合おうと思う。
で、これは日記なので、私が私のためだけにいくつか問題点を整理して、それに対する自分の態度を残しておく。
これは私のフィクションに対する受容態度、作品が社会に与える影響、そしてそれを人に勧めるときのリスク全体に関わってくるものだから。
問題点の整理
①作品への評価
②社会への影響
③フィクションと現実の関り
上記三点に問題を分けて考える。
①作品への評価
この作品の、主人公の気持ちの動きの描写は本当にすごい。
小学生の時の意味のない遊びと楽しい日常の切り取り方がよかった。
「鬱」で苦しんでいるときはいったい何が苦しかったのかというところ、自分が戻りたいのは「中学受験の時にやりたいと思うことが全部で来ていた無敵感を持った自分」ではなく「小学生の頃の意味のない遊びで無邪気に笑っていたかわいい自分」だというところ。
投薬でもカウンセリングでも「鬱」が改善しなかったが、「自分にできることがある」と考えてから奮い立ち、「「鬱」が治った」と言えるところまで回復したところ。
「自己愛を知ることによって過去から自由になった」というところも感動的だった。「自分でそれをしたんだ」と自信を持つところもよかった。
だからこの作品のここを読んでほしい!!という思いはやっぱりあるんだよな~。
ただ、虐待・鬱という共通点を持つ友人に対して「治さないと決心しているんだな」と判断するところは、指摘があって気づいたことだけど、改めてとても残酷だと思った。
治したいと心から望んでいても治らない現実がある。
パーソナリティ障害や発達障害による鬱などは、「脳」によるものが大きく、「脳」の働きや治療についてはまだわかっていないことが多いから。
しかしこれも、作者と友人の個人的な話として私は読んだんだよな。
作品全体を通して、この友人に対する好意的な描写はかなり少なくて、「ぼーっとしているけど学年1位の秀才」「上京した今でも時々会う数少ない友人」だけど「急にブチ切れる理由に鬱を持ち出す」「自分のことをわかってほしいと考えて見えるところに傷を作る」「治ったと告げた途端「大した鬱じゃなかったんだね」と言ってくる」、かなり攻撃的な人として描かれていた。
親や弟、同級生の人格がほぼ描かれない中で、この友人のキャラクターの人格はかなり描きこまれているのだから、これは類型ではなく個別の人物だよな、と私は読んだ。
②社会への影響
結局ここまでで2800字近く書いて、全然結論が出なくて、友人に電話をした。
作品についてかいつまんで説明し、自分の中で結論が出ない部分について相談すると、友人が指摘してくれたのは以下の3点だった。
・「個人的な闘病記」がメインなのであれば、マエダ先生がマンガを広告に利用するべきではないと思う。作品の良さと治療の成果を混同する人が必ず出てくる。ステマと思われても仕方ない。
・話を聞く限りでは著者の「鬱」に対する考え方はかなり幅の狭いもので、「治った」と言い切ってしまうところも危うい。著者の個人的な「鬱」に対する印象が、作品と共に世間に広く行き渡ってしまうのは危険。
・その作品の素晴らしいところはもちろんあるのだろうけど、「治さないと決心している人なんだな」という最後の一言を聞く限り、人には勧められない。特に現時点で「鬱」の症状で苦しんでいたり、身近な人の「鬱」の症状を和らげたいと望んでいる人には。
私が作者の「内面の表現」を面白く読んだ一方で、作品が「鬱の治し方」として読者に受容されることについてはほとんど考えていなかったんだな、というところをなかなか深く反省した。
つまるところ、この作品が「鬱を抱えた日常」の物語だったら、ここまで大きな物議をかもすことはなかったのかもしれない。
しかし「鬱が治ったマンガ」という枠組みの中では「鬱を治したいと願う人・鬱の寛解に関心のある人」が多く読むだろうことは想定できる。
だとしたら、作者の「鬱」そのものや「鬱との対峙の仕方」の描写はかなり偏っていて、誰にでも簡単に進められるほど安全なものではなかったということだ。
最後が「大川隆法に出会って自分と向き合い、「鬱」が治りました」となっていたら私は絶対に人には勧めない。
それが「催眠療法」だと抵抗なく読めてしまうのは、私にとって高額の民間療法というものがあまり身近な危険ではなかったというだけなんだよな。
「自分の病について語ることが、自分も含めた病全体について語ることになってしまう怖さがあるし、いつも気をつけている」とも友人は言ってくれた。
私が娯楽や内面の表現として作品を楽しんだけれど、
「病とその治療」の表現は、娯楽をはみ出して社会的な意味を伴うものなんだな。
そういう視点がなかったことは非常に反省しなければいけないな、と思った。
③フィクションと現実の関り
「フィクションなのだから真に受けるな」という意見もあった。
でも私はそうは思えない。
フィクションは事実と精神をつなぎ合わせるものだ。
事実の解釈はいつだってフィクションを伴う。
それを否定してしまったら、あらゆる精神も芸術も力を持たないということになってしまう。
特にこれは個人の体験がもとになって書かれており、催眠療法カウンセラーの先生も実在するのだから、現実に「自分も同じように「治った」と思えるかもしれない」と考える人は必ずいる。
だから、フィクション(作品の表現)には責任がある。
それを勧めた私にも。
「治し方」を謳うなら、「すべての人に当てはまるものではない」という留保は最低限あったほうがよかった。
「実在する人物・団体とは一切関係がありません」みたいで言い訳めいた感じは否めないけれど、それは大事な留保だと思う。
今回は実在する人物・団体と関係あるわけだし。
④私の態度
・デマは流したくない。
・暴力に加担したくない。
・良いものの良いところを話したい。
今回の作品自体はデマでも暴力でもない。
フィクション込みのエッセイとして、実感の伴う素晴らしい表現があったことは間違いない。
個人の考えの記録としても傑出していた。
だけど、「鬱が治った話」としてバスったことには暴力的な側面があった。
特に作者とは違った症状の「鬱」で苦しんでいる当事者や、当事者の周囲の人たちにとっては苦しみの増すことだった。
しかも「鬱」に対しては「治る」という表現が適切ではない以上、「鬱が治る」自体がデマに近いものになる。
私はそのことに対して慎重さを欠いていたし、そもそもそういったまなざしがなかった。
申し訳ないし、反省もしている。
それはもう取り返せないから反省して、これからの行動に活かすしかない。
友だちとも、「病気を語ることの個人的な側面と、社会的な側面とを考えることは本当に難しいよね」と話し合った。
「フィクションだから」と読み手に責任を丸投げすることもできない。
作品を作ったのは私ではないので、作品に対して責任を負うことはできないけれど、自分の作品の受容の仕方や人への勧め方を省みた出来事でした。
ここまで読んでくれた人、個人的なつぶやきに付き合ってくれてありがとう。
私はあなたの話も聞きたいです。
おわり。
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