見出し画像

「加害者にならない絶対的確証はない 児童虐待」 臨床心理士への随録 心理学

今回の福祉心理学の講義テーマは児童虐待でした。哀しみ、怒り、憤りなど、様々な感情で靄(もや)がれていく自分を感じていました。なぜこんなにも鬱蒼とした気持ちになるのか、それは「子ども」と「親」の心情を同時に想像することで生じるアンビバレントさと感情のオーバーフローからと解釈しました。

私は小中学生の頃、弱い自分を憂いていました。背が低く痩せていたため、同級生とのプロレスごっこでは簡単にねじ伏せられます。誘拐のニュースを観る度に感じる、大人に拉致られたら抵抗のしようもないという絶望。親なしでは生きていけない社会的弱者感、など。「力」というものに恐怖を感じていました。

誰でも虐待を行う側に成りうることが示唆されています。「そんな馬鹿な、自分は絶対に大丈夫」とお思いでしょうが、例えば今の生活が崩壊し、今日食べるものすら確保できず、借金返済などの強烈なストレスを抱え、頼り先がひとつもないような悲惨な状態に陥った時、不安や惨めさ悔しさややりきれなさを、閉ざされた家庭内空間にいる「無力な子ども」に向けてしまう可能性を、完全否定できますでしょうか。

虐待を犯してしまった主な理由として、以下のようなことが報告されています。①貧困やストレスが心を蝕ばみ、上手くいかないイライラを弱者へぶつけてしまう。②愛情飢餓のまま成長してきた親は子どもへ依存し、その期待が裏切られると憎しみの対象に変わってしまう。③歪んだしつけを経験して親になった人は、自分の子どもにも同じような態度で接してしまう(世代間伝達)。④精神疾患や発達障害により正常な判断が下せなくなる。

本来は誰も虐待などしたくはないのです。生育史や環境要因などの条件が組み合わされると途端に危険度が高まるのです。本当に恐ろしいことです。

一線を越えてしまった親への心理支援は、そのように振舞ってしまった背景や、その人なりの正当性を受容することから始まります。理由がどうであれ、私個人としては到底受け入れ難いと思っている中で行う「受容」とはどういうものなのか。なかなかイメージを掴めないでいます。