True Heart 〜あなたに届くまで〜再生の物語 【完全版】
1. 遠い記憶
子どもの頃、父が運転する車に乗って、ある病院の前を通り過ぎるたびに、わたしはいつも胸が押し潰されそうな気持ちになった。怖かった。当時はそれが怖いと言う感情であるということにさえ気付けなかった。ただ、何かに刺されたように何かに侵入されたように、身体中に気持ちの悪い衝撃が走る。苦しいとか辛いとか、言葉にするには、それはあまりに強烈な感覚で、ただひたすらその感覚から気持ちをそらそうと必死だった。それはまだ、小学生になりたての7歳の頃のことだったと思う。
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わたしは幼い頃から、小柄で、背がなかなか伸びなかった。小1の時の身長は98㎝。1メートルにも満たない。同じ年齢の人間の中では、豆粒みたいなサイズだ。そのことを心配した両親は、小学校の先生の勧めもあって、わたしを近くの子ども病院に連れて行った。
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そのあとの記憶はない。その後診察室に母が入ってきたような気もするが、うろ覚えだ。それからも、父の車に乗ってこの病院の前を通るたびに、ゾワゾワと蘇るあの感覚だけが残った。怖い。気持ち悪い。思い出したくない。助けて。でも恐ろしくて言葉に出来なかった感情。両親には話せなかった。誰にも話せなかった。ただただ、忘れたかった。そのことを理解するには、わたしはまだ幼すぎた。誰にも話さないまま、わたしはその記憶を封印した。
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『あんたには一体何個人格があるねん。』
笑いながらそう言ったのは、当時付き合っていた恋人だった。彼は二回り年上で、精神科医をしていた。まだSNSがそこまで盛んではなかったころ、所謂出会い系サイトでわたしたちは出会った。その頃のわたしは、本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたりすることに夢中だった。自分が感動した作品について、とことんどこまでも語り合える相手を探していた。当時使っていたサイトには、趣味での検索が豊富なカテゴリーで分けられていた。わたしは読書や芸術のカテゴリーで気の合いそうな人を探した。彼以外にも20代の自分の人生においてなくてはならない特別な人との出会いの大半がこのサイトにあった。そのどれもが、わたしにたくさんの気付きや学びを与えてくれた。精神科医の彼は、その中でもわたしの人生に深く入り込んできた一人だった。付き合っていたとは言え、大半はメールや電話でのやりとりで、それは寝食を侵すほどのものだった。付き合いは三年ほど続いたが、直接会ったのは片手で数えるくらいだ。彼は既婚者だった。
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『【展覧会の絵】みたいな奴やな〜。』
彼はいつものように笑いながら電話越しに言った。
『【展覧会の絵】ってムソルグスキーの?』
『そうや。知っとるか。一回聴いてみ。あんたそっくりやで。』
自分がこんな組曲に例えられるなんて、驚きだった。彼がわたしという人間を観察して、聴こえてきた曲がこれだそうだ。なるほど。彼にはわたしがこんな風に見えるんだ。初めて自分を上から眺めたような衝撃が走った。そしていつか彼が言った『あんたには一体何個人格があるねん。』の意味が分かった気がした。別にわたしは多重人格ではない。精神科にかかったこともない。ただ、親しい人の前では、その時その時の気分にバカ正直で、クルクルと表情が変わり、さっきまでのわたしとまるで別人のように感じられることはよくある。それがきっと、この【展覧会の絵】という組曲に重なるものがあったのだろう。
彼は、わたしが奥の奥に封印した“何か”をどこかに感じていたのだと思う。いつも肝心なところで心のシャッターを下ろす、急に泣き喚き取り乱す。そんな不安定なわたしに、何とか安らぎを与えてくれようと、命懸けで関わってくれたことだけは確かだ。しかし当時わたしの記憶からは、幼い日の恐怖の体験は抜け落ちており、付き合っていた三年の間に彼に話すことはなかった。ただ、悲しいこと、苦しいことを心の奥の奥へ押し込み、なかったことにして怒りでごまかす。そのパターンに気付いてくれていたから、いつもどんな時もわたしの心に寄り添って、そばにいてくれた。人生で初めて安心感を教えてくれた人だった。それでもわたしは、いつしか、彼が既婚者であることで溜まっていく鬱憤をごまかすことが出来ず、喧嘩別れするようなカタチで自分から彼の元を去った。
♢
わたしは、自分の幼い頃の恐怖体験が、可哀想でしょう?大変だったでしょう?と、言いたいのではない。もちろん性的イタズラは許されるものではないし、訴えれば犯罪にあたっただろう。しかしわたしが今、様々な経験を通して、いちばん伝えなければならないと感じているのは、幼い頃にその出来事を、耐えがたいはずの恐怖を、両親に話すことが出来なかったそっちにまつわる話の方だ。わたしにとって家は『安心できる居場所』ではなかった。いつも外から見える誰かの家の窓の灯り、聴こえて来る笑い声に胸がザワザワした。嫌悪感しかなかった。何が楽しいんだろう?何で笑ってるんだろう?家族の温かさなんて、感じたこともなかった。そんなわたしが何の因果か家族を持ち、今現在妻や母をやっている。案の定、家族の温もりなんて知らないのに家族のカタチなんてわかるはずもない。知らないことは出来ない。なんでこんなに辛くて苦しいのかもわからない。でもずっとこんなところにはいたくない。ひたすら言い訳をして、理由を作って、必死になって外に出る時間を増やした。とにかく上手いこと言っては逃げて逃げて逃げまくった。かたや娘は重度のアトピーになった。世間から出来損ないの母の烙印を押されたくはない。今度こそちゃんと向き合わなければいけない。そこから一年は意を決して世話に明け暮れた。その挙げ句、今度はわたしの顔、そして身体中が、爛れる皮膚症状に侵された。20年前に克服したはずの皮膚症状がものすごい勢いで出てきたのだ。そして立てなくなった。もう限界だった。
♢
2020年の3月。皮膚科に行った。入院一歩手前のギリギリだと言われた。もう生活を支える家事や育児をするのは無理だった。覚悟を決めて、実家に世話になることを決めた。いつも事情を偽って帰ることを拒み続けた両親のいる家。さすがに出産の後は世話になることを試みたが、フラフラで夜も眠れず、こんなに必死でやっているのに、いつも責められる。“頭がおかしい”“何考えてるかわからない”“キチガイ”そんな罵詈雑言ばかり浴びせかけられる。結局両親との間にはどうしたって諍いが起こる。わたしの目の前にはこんなにも愛しい生まれたばかりの我が子がいるのに、息が詰まる。やっぱりこんな重苦しい空間には耐えられない。初めての育児がどんなに大変でも心休まる空間に身を置きたい。そう願って4日後には我が子を抱えて夫のいる自宅へ舞い戻った。そんなあの家にまた戻るのだ。
♢
2. 邂逅
悪夢を見た。
好きだった彼が、なぜかわたしの今住んでいる自宅に若い女の子を二人連れてきていた。
向こう側の部屋で、大きな話し声がする。
なんだか盛り上がっていて楽しそうだが、見たことのない彼の一面に怖気ついて、その中には入れそうにない。
一方でわたしは、この状況下でいつ帰ってくるかもわからない両親の存在に冷や冷やしている。見つかったら絶対に怒られる、怒られる、怒られる。
意を決して彼のいる部屋へ行く。人の家に勝手に上がりこんで、迷惑を顧みない行動にわたしは苛立ち、注意をした。しかし女の子二人は反論してくる。言ってることがまるで通じない。噛み合わない。宇宙人と話をしているみたいだ。それでもわたしは必死で捲し立てている。耐えがたい苦しさが沸きが上がってきて、とうとう彼に泣きついた。彼は、わたしより、二人の女の子を庇う。味方する。挙げ句の果てに、わたしを遠回しに脅し始めた。なんで?なんで?わたしよりその子たちが大事なの?なんでわかってくれないの?
もう両親が帰ってくる。どうしよう。怖い。この場をなんとかして収めなければ。
間もなくして両親が帰ってきた。なぜかわたしのことはまるで見えていないようだ。そしてわたしは、大きな南京錠を持った彼にどこかに引っ張られて行きそうになり、必死で抵抗する。
そこで目が覚めた。
♢
いつも一番じゃなければ、選ばれなければ、誰も見てくれないと思っていた。容姿が可愛くない、仕事が出来ない、そんなわたしには価値がない。
雑な扱いを受けるなんて、そんな屈辱は死んでも味わいたくない。気付いたら、死に物狂いで仕事をしていた。
長年、アパレル業で接客をしていた。
服が好きで好きでたまらなかった子ども時代からの夢は叶っていた。夢中で仕事をするほどに、結果はついてきた。個人売り上げはいつもトップ、店長になってからも、会社でいちばん売り上げをあげる店にまでなった。お客様の心が、求められているサービスが、手に取るようにわかった。まわりの人はわたしをカリスマと呼んだ。持っているエネルギーはすべて仕事に捧げた。その一方で、いつも後ろからは誰かに追われている。抜かされる不安、結果を出せないかもしれない恐怖が、わたしの心を絶えず疲弊させていた。
当時わたしの存在価値は、誰よりもずば抜けた“数字という結果”で出来ていた。言い換えれば、結果を出せなければ、価値がない、誰も見てはくれないと思っていた。圧倒的である必要があった。だから、必死で力を絞り出し続けた。40代で死んでもいい。売り場で死ねるなら本望だと本気で思っていた。
やがてわたしの身体は見えないところでどんどん壊れていった。夫の美容室の開業に併せて仕事を辞めた後は、一時的にリセットされたものの、出産、育児のタイミングでまた同じように良妻賢母の理想に追い詰められ、超絶無理を強いた。そしていつかの望み通り、わたしは41歳で倒れた。
♢
2020年3月、両親の実家で世話になることになった。その時のわたしは立って歩くことが精一杯で、娘のことはすべで両親に任せるしかなかった。重度のアトピーだった娘に対しては優しくしてくれたので、そこは全面的に託した。眠れない日々が続き、睡眠導入剤をいくら飲んでも効かなかった。完全に弱っているわたしに両親はある程度優しかったが、朝起きれない日が続くと、だらだらするな、それは甘えだと叱咤し、早起きをして生活リズムを整えろと言った。娘の育児くらい自分でやらないでどうするつもりだと、追い討ちをかけられた。
全面的に面倒見てやってるんだから、それくらい努力しろと言うことなのだろう。甘えているのか動けないのかすら、自分では判断することも出来なかった。心が休まることはなかった。とにかく言われる通りに身体に鞭打って、必死に起きた。毎日8千歩近くウォーキングもした。眠れないのは動いてないからだ、身体が疲れれば眠れるんじゃないかと言われたからだ。実家で世話になっている以上、わたしはただ、言われるがままにやるしかなかった。それでも日に日に、気分の落ち込みが酷くなった。足に筋肉がついていく一方で、食欲はなくなっていった。得体の知れない恐怖に飲み込まれそうな日々が続いた。
両親には心療内科を勧められた。母も数年前に鬱を患っており、症状が軽減した今も睡眠導入剤はまだ服用している。その一方で、わたしは夫に電話で相談をした。まともに話をするエネルギーもない中、必死で症状を訴えるが、ネガティブに考えすぎだと言われるばかりで、心療内科に行くことは反対された。わたしだってできることなら行きたくはない。誰にも伝わらない現状に、どうしていいかわからないまま日々は過ぎた。
そんなある日、母に婦人科へ行ったらどうかと言われた。更年期で眠れない友人が、ホルモン剤を飲むとよく眠れると言っていたのを思い出したそうだ。わたしにも更年期の障害が出てるんじゃないかと言った。そう言えばずっと不順だった生理はしばらくきていなかった。そっちの選択肢の方が、まだわたしの心を安心させてくれた。
すぐに、わたしは婦人科へ行く手配をした。
婦人科では、ホルモン剤をもらった。
医師の診察は、生理を起こしたいか、起こしたくないか、どちらかを選べというものだった。起こしたいならホルモン剤を出すと言われた。わたしの期待していた診察とはあまりにかけ離れていたが、今の死にそうな状況から抜け出せるならと、ただ神頼みのようにホルモン剤を飲むことを選んだ。
薬を飲み始めてなんとなく、気分の落ち込みが軽減してきたような気がした。
少しずつ、食欲も復活し、娘にも構えるようになってきた。だがこんな状況でも両親の機嫌をどこかで伺い、精神的にはストレスが絶えなかった。とにかくギリギリ自分のペースを守れるように日々を過ごした。
身体が燃えるように熱く、痒くて痛くて眠れない夜は続いた。真夜中に大きなうめき声が漏れる。誰かに身体をさすって欲しかった。それに気付いた母が、寝付くまで背中をさすってくれた夜があった。子どもの頃から母に優しくされた記憶は1ミリもなかったが、その時の安堵感はこれまで感じたことのない安らぎだった。わたしはそのあと、スーッと寝付くことが出来た。
そこから、少しずつ、言えなかった想いを両親に伝えることを始めた。
♢
幼い頃から、記憶の中の母はいつも怒っていた。
父はそんな母に言われるがまま、便乗してわたしを怒鳴ったり殴ったりした。時には無関心を貫いた。
『言ってもわからんのやからほっとけ。』
それは父の口癖だったように思う。
わたしの逃げ場はどこにもなく、泣くことさえできなかった。その場から立ち去って部屋にこもるしかなかった。ただ、ひたすら孤独に耐えるしかなかった。
小学校二年生の頃に書いた作文集があった。当時父が習っていたプールに着いていくことが習慣になっていたわたしは、プールに行くはずの日、帰宅が遅くなってしまった。そのことを、ヒステリックに怒る母、その反面、何も言わず待っていてくれた父の優しさがすごくうれしくて、そのことをそのまま恥ずかしげもなく作文に書いた。それを読んだ母がまた激怒したのだった。
当時のことを、思い切ってを母に聴いてみた。
『あぁ、あの時はお母さんもめっちゃ辛いことがあったんよ。今はまだあんたには言えへんけどね。育児も誰にも手伝ってもらえへんかったし、今思い出しても辛くて泣きそうになるわ。言えるとしたら、お父さんが死んだ後かな。』
母には母の事情があるのだなと思った。
一方、父にもずっと気になっていたことを聴いてみることにした。
『わたしは子ども時代に甘えた記憶が一切ないんやけど。』
『あぁ、ないわ。甘えられた記憶はないわ。』
それを聴いていた母は
『それは長女の宿命よ。仕方ないわ。』
と言った。
まぁそう言われればそうなのかもしれない。それ以上は何も言えなかった。そこには三者三様のバラバラの世界があるだけで、わたしはどこまでも両親に置き去りにされている気がしてならなかった。だけどそれももう過去のこと。
すんだことは仕方のないことだし、それぞれにやるせない思いがある。
そのことを知れただけでもよかったのかも知れない。そう自分に言い聞かせてその話は終わらせた。
ほんの少し、両親との距離が縮んだように見えた出来事だった。
それでも、その後も一緒に暮らす中で、母のヒステリーと父の厳格さは顔を出し、その度にわたしを責めた。
そして、そろそろ一緒に暮らすのは限界だと言う両親の言葉で、1ヶ月と21日の同居生活は唐突に終わりを告げた。
効かない睡眠導入剤とホルモン剤はまだ飲み続けていた。
引き続き体調に不安を抱えたまま、わたしは娘を連れて夫のいる自宅へと戻ることとなった。
本当の地獄はまだ始まってはいなかった。
♢
3. 温もり
2020年5月、娘を連れて夫のいる自宅へ戻った。
家事や育児をしなくてもよかった実家生活のおかげで、体力は少し復活したかのように見えた。
これまで静かに二人で暮らしていたのに、急に大きな娘と孫が家にやってきて、世話をしなければならない環境は両親にもストレスだっただろう。
生きていてくれてよかった。受け入れてくれて助かった。両親がいなければ途方に暮れていただろうから。
自宅に戻ってからの生活は、最初は特に何の問題もないように思えた。身体は辛いが、皮膚症状は二ヶ月前よりは良くなっていたし、眠れないなりに睡眠も少しは取れるようになっていた。
それでも、不完全な体調で家事育児を続けるうちに、また思うように身体が動かなくなってきた。
気持ちがコントロール出来ない。
恐怖が波のように襲ってきて、立っていられなくなった。怖い。怖い。怖い。
慌てて近所の婦人科へ駆け込んだ。診察受付時間ギリギリだった。事情を説明するが、転院となると前のクリニックの紹介状がいると言われた。死にそうな状況で駆け込んだ病院で、なんでこんな扱いを受けなきゃならないのだろうと、頭が真っ白になった。とりあえず、検査だけはしてくれることになったが、それがなんの意味もないことは、頭の片隅でわかっていた。それでも気が紛れるなら何でもして欲しかった。
事情を話すとそんなわたしを夫は精神的に弱いと責めた。無駄なお金を使わないでくれと言った。
しんどいなら休んでいればいいとも言った。
わたしの身体は最後の力を振り絞って何とか生きているように見えた。
もう無理だと思った。
そして結婚当初に友人の紹介で知り合い、お世話になったことのある、沖縄の整体師さんのことばかりが頭に浮かぶようになった。
もう何年も連絡をとっていなかったが、多分今のわたしを理解してくれるのは、彼しかいない気がしていた。わたしに必要なのは医者ではないことだけは確かだった。
でも彼が住んでいるのは沖縄だ。沖縄に行けるエネルギーは今のわたしには残っていないし、世間はコロナ禍で移動もままならない状況だった。
それでもこの身体を何とかしてくれるのは彼しかいない。そう確信せずにいられなかったわたしは、夫にお願いして、彼に連絡をしてもらった。藁にもすがる思いだった。これでダメなら多分もうダメだ。最後の一縷の望みを託した。
彼からの返信は、オンラインでなら身体を見れるというものだった。遠隔セッションというものだそうだ。どんなものかはわからないが、親しい人のテレパシーを受けとってしまう体質のわたしは、目に見えないエネルギーに対して抵抗はなかったし、この際このコントロールの効かなくなった心身を見てくれるならもう何でもよかった。
そして、彼の遠隔セッションを受けることになった。
スマホの画面に身体全体が映るように、布団に横になった。目を瞑り身体を預ける。温かいエネルギーが身体に流れ込んで来ているのを感じた。
20分後、画面の向こうから名前を呼ばれた。
彼がわたしの身体から発される声を拾い、今の状態を伝えてくれた。
涙が止まらなかった。
やっとわかってもらえた安堵感だった。
そして彼は今後の施術の提案をしてくれた。
『今の身体の状態だと、ヒーリングに耐えられるのは20分が限界です。それ以上やると、好転反応が酷くなり、余計に辛くなります。なので、これから週に2回20分、遠隔ヒーリングで少しずつ浄化を進めていくのがいいと思います。どうされますか?』
『それでお願いします。』
そして、そこから、本当の意味で地獄の日々が始まった。
身体が熱くて痒くて夜も眠れなかった。
実家療養で少しずつ良くなったかのように思われた皮膚症状はみるみるうちに悪化した。好転反応とはいえ、身体のあちこちには十円玉サイズから千円札サイズにまでどんどん大きくなる傷口、爛れる皮膚、身体の奥底から湧き上がってくる恐怖や悲しみが、連日連夜わたしを苦しめた。
それでも、施術をしてくれ、辛い状況をメールで話したり、それを励ましてくれたり、そんな理解者がいてくれることは何よりの救いだった。
彼には1年間寝たきり生活の、超重症アトピーだった過去があった。そんな彼が伝えてくれる言葉は、わたしのチカラになった。
『今あなたのカラダはクリアな状態に戻ろうとしていて、それを妨害するというかストレスになるもの(こと)に対しては、拒否反応が出るような状態なのかもしれません。
書かれていた通り、横になっているだけでもカラダは回復してくれるので、眠れないことに焦りを感じず、きつく感じると思いますが、カラダは現時点での最善の策をとってくれていると信頼してみてください。
不安や恐怖というのは、それ自体は悪者ではなくて、自分を守るために必要な感情です。
幼少期から今にいたるまで、あなたをなにかから守るために、出てきてくれている感情です。
だからといって頻繁に、そして強く出てきてしまうとやはりストレスに感じてしまうと思いますが。
不安や恐れを悪いものだと認識せずに、「なにを守ろうとしてくれているんだろう?」と俯瞰してみるのもいいと思います。
あとは、抑え込んできたものが出てきているということもあるでしょうし、まだホルモンバランス(自律神経)が不安定なので、どうしても感情もネガティブになってしまいやすい状態です。
いま心身に起こっている現象は、不快だと思いますが、それでもあなたがクリアな状態に戻っていくため、そして守るために、自分の意識を超えた大いなるものがやってくれていることです。
一見ネガティブに感じられるものでさえも、です。
とはいっても心身がきつい状態だとどうしてもストレスに感じてしまうと思います。
そんなときは深く考えずに、ただただ流れに身を任せてみてください。
自分の意志で努力をして良くなろう、というのは、もう少し先の段階です。
いまはただ流れに身を任せて、起こることを見守っていてください。
人知を超えたレベルのエネルギーが、いい方向に導くために動いてくれていますから。
そのすべてを理解しようとする必要もなくて、ただ信頼するだけでいいと思います(それが難しいのですが)。
あとは、現実的な話に戻すと、全体的には改善してきていますが、どうしても体調の波(浮き沈み)はあります。
どんな人でも、あります。
気候も、晴れの日もあれば雨の日もあります。
浮き沈みがあることが、自然界の中で生きているということです。
なので、どうしても調子が悪くなると気になってしまうと思いますが、そもそも浮き沈みがあるのは当たり前のことなんだと思って、やはり流れに任せてみてください。
大丈夫です。
大丈夫だと思えない時もあると思いますが、でも、大丈夫ですから。』
わたしは大丈夫だ。
初めてそう思えた瞬間だった。
♢
施術を受け始めてから1ヶ月が過ぎていた。
まだまだ悪化する皮膚症状に耐え難い苦痛を感じながらも、7月に入ると睡眠導入剤とホルモン剤の両方の薬を手放すことが出来たのは本当にうれしかった。
施術開始直後から彼に言われ続けたとおり、自宅では出来るだけ何もしなかった。
それでも最初は、家事や育児をしてしまう。そこに自分の存在価値を見出すかのように。そして辛くなる、その繰り返しだったが、施術が進むに連れて、それが一番逆効果だと言うことが少しずつ理解できた。
ただひたすら横になっていた。
家事も育児もどんどん手放した。
わたしはわたしの身体のために、ただ横になって休むことだけに集中する努力をした。
料理は夫が全てやってくれた。
娘も楽しそうにひとりで遊んでいた。
寝ているだけなのに、いろんなことがうまくまるようになっていく光景が、不思議で仕方なかった。自分の身体の声を大切にしたら、周りにも大切にされるようになってきたようだった。
これまで溜め込んできた感情は、日に日にいろんなカタチで表に出てきた。辛かったし苦しかった。たまった邪気のようなものがリリースされるとき、人は不眠症になるんだそうだ。それでも、これが過去に見て見ぬ振りをしてきた自分自身の感情なんだと言う実感は、浄化を進めてくれた。
こんなにも無視してきた感情があることに、今更ながらに驚いた。
施術を受け始めて2ヶ月が過ぎた頃には、わたしの婦人科系の臓器のエネルギー数値は1桁台から60くらいにまで復活していた。
身体の土台が整ってきた目安である、数値40を過ぎた頃からは、肌に直結する大腸の調子を整えるための乳酸菌サプリを飲み始めた。
身体の微細な声を拾って、必要なタイミングで必要な提案をしてくれる彼の施術は、本当に心強かった。
そして、7月半ばに福岡で出張施術があると言われ、新幹線に乗って福岡へ出向くことも決めた。遠隔ではなく直接身体をみてもらえたことは、わたしの心身にさらにいい影響を与えた。施術の一環で、束の間そっと握ってくれた手の温もりは、わたしをそのまま子ども時代に還らせてくれた。あのとき欲しくたまらなかった両親の温もり。だけど叶えられなかった願い。それを今、こうやって感じさせてもらえている。それだけで十分だった。その後も順調にデトックスは進み、内側はどんどん元気になっていった。外側の皮膚症状はまだまだ拡大していたが、8月に入った頃に、突然ピークが去ったような感覚がやってきた。施術開始からは3ヶ月が経っていた。
その頃から、また彼の提案でプロテインを飲み始めることになった。プロテインはただのタンパク質で、皮膚再生に最も必要な栄養素なんだそうだ。運動している人が飲むサプリのように思われがちだが、人間の身体は、水を除くと、その80%はタンパク質でできているとネットの記事でも読んだ。
プロテインを飲み始めて、皮膚の爛れがみるみる引いていくのを実感した。
そして今現在、わたしの傷口はほぼ、小さな瘡蓋だけになった。
まだ完全に治ったわけではないし、今もまだ二週に一回というペースで施術を続けている。
その中で、また違うトラウマが浮上し、浄化されている最中でもある。
しかし施術を受け始めて4ヶ月、わたしの心身は大きな波を超えていた。
その中で、過去に浄化しきれなかった感情というのは、まず身体を癒すことでクリアになっていくのだという貴重な体験をした。
人の助けがあって、初めて起こる癒しがあると知った。人で出来た傷は、やっぱり人が癒してくれた。それがわたしのいちばんの救いになった。
わたしの調子が良くなっていくにつれ、娘のアトピーまでが改善していった。娘もどんどん元気になった。
自分の身体が醸し出すエネルギーやオーラが、身近な人に多大な影響を与えていたのだということも目に見えてわかった。
だから、もう無理はしないことにした。
どんなにやらなければならないことが目の前に山積みになっているように見えても、わたしはそれをやらないことにした。
いまだにメインの食事は夫担当で、わたしの唯一する家事は掃除と洗濯だけになった。
その洗濯でさえ、やりたくなければやらないし、夕方に干すこともザラだ。
洗濯物は朝干さなければならないという概念は捨てた。そんなことより、自分の身体が望むこと、心地よいことをまずは選ぶ。それは、映画やドラマを見ることかもしれないし、娘と遊ぶことかもしれない。その時々で選択肢は変わるが、昨日の望みが今日は違うのは当たり前だから、一貫性という縛りも捨てた。コロコロと変わっていくのが自然であって、今この瞬間の自分の本当の望みに耳を傾けることが重要なのだと知った。
側から見たら、出来損ないの妻であり母だろう。何にもやらない、何にも出来ない、悪妻愚母上等といったところかもしれない。
だけど、家族はのびのびしている。夫は半沢直樹を見て大笑いし、娘はこだわりのファッションを身に纏って楽しそうだ。それは多分、偽りの良妻賢母ではなく、わたしのありのままの姿、自然な笑顔が増えたからだろう。
そして、買い物や料理を当たり前にしてくれる夫に、心から感謝出来るようになった。
わたしの人生でいちばんの幸運は、彼と結婚出来たことだと今なら思う。
人は、親との関係性の中で根付いた感情のパターン、もしくはそれ以外でも強い感情経験によって作られたパターンを、人生のすべてのものに当て嵌めて、幻想を見てしまいやすいようになっている。それは仕方のないことだと思う。わたしはその幻想の中で苦しんだ。両親や夫の冷酷な部分ばかりに反応して、自分で自分を追い込んだのも事実だ。死に物狂いで働いて、圧倒的な結果を見せつけて、それでも満たされなくて、結局わたしが認めて欲しいと願ったその矛先は、両親だった。時が経ち、俯瞰で見れるようになって初めてわかることというのはやはりある。でも、わからなければわからないままでいい。ちゃんと自分の悲しみだけを見つめてあげる時間が、まずは必要だと思うから。だから自分を痛めつけるような無理だけはしてはならないのだと思う。どんなに先が見えないように思えても、抵抗せず流れに身を任せていれば、いつか必ず辿り着ける安らぎの場所はあるはずだから。そんな小さな希望だけはなくさないでいたい。
♢
最後に実家で過ごした二ヶ月近い両親との邂逅の日々は、幼き日の傷をリアルに思い出すいい機会になった。おかげで、その後の施術での浄化がスムーズに進んだ気がする。
すべては成るように成っていたと、今ならわかる。
わたしは、家族ではなく、身近な人でもない、一人の整体師の彼に、人生の苦境を救ってもらった。彼はわたしの身体の声を拾ってくれた上に、その先まで見せて導いてくれた。彼に出会っていなければ、わたしの回復劇は別の道を辿ることになって、もっと時間がかかっていたような気がする。正直、今生きていたかどうかさえもわからない。あの時、頭に浮かび続けた彼に連絡をして、本当によかったって思う。
今もし、これを読んでいる中で、苦しみの渦中にいるという人がいたなら、【なぜかわからないけど真っ先に頭に浮かぶ誰かの存在】を、迷わず頼ってみて欲しい。
頼ったり甘えたり、助けを求めたりすることは、人によってはとても勇気のいることだ。拒絶される恐怖は、人を立ち直れなくさせてしまうこともある。わたしはきっと生まれた瞬間は、両親に全力で受け入れられていたはずだ。けれど、生まれた後は拒絶されることが増え、そんな良いと悪いの繰り返しの波の中で悲しみばかりが降り積もり、その気持ちを外に出すことが出来ずに成長していったんだろうなと思う。それは大人になってからも続いていて、今、ようやくゼロに戻ろうとしている。
だから、全部これでよかったんだと思う。
人には人の受け入れられる器の大きさがあり、それはその人の問題で、わたしのせいではなかった。
両親には両親の事情があった。今言えるのは多分それだけだ。わたしを愛していないわけではなかった。わたしは無意識に愛されていないと思い込むことで、辛さを増幅させていた。これが幻想のトリックなのだと思う。だから、仕方がない。悲しいけれど。
それでも、そんな簡単に割り切れない想いがあるのは百も承知だ。両親には無償の愛を注いでほしい。そう願うのは、幼い子どもなら当たり前のことだと思うから。
叶わなかった愛に絶望したまま大人になり、だけど、そんな時にさえ救ってくれるのは、どうあがいたって人の温もりだけなのだ。
お金を払って、マッサージや整体に行くだけでもいい。人の温もりは、自分が今生きているということ、存在しているということを、ただ示してくれる。命の価値に優劣などないことを思い出させてくれる。
だから、諦めないで、勇気を出して、その温もりに手を伸ばしてみて欲しい。
それが難しいなら、ただゆったりとお風呂に浸かるだけでもいい。
自然の恵、その水の感触は、いつもあなたを優しく包み込んでくれる。そんな、大いなるものの存在を思い出すきっかけになるかもしれない。
湯船に浸かっていると、いろんな想いが浮かんでは涙してしまうことが多いわけは、きっとそこにあるのだと思う。
そして最後は何も言わずに、自分を抱きしめてあげてほしい。
身体の叫びが、生きたい衝動が、命の振動が、その手からきっと伝わってくるはずだから。
わたしがこれまでの波乱万丈な人生をかけてまで手に入れたかったものは、この温もりだった。
“わたしはここにいる” そんな心身の叫びを受け止めて欲しい、それだけだった。
それをいつも自分以外の誰かに与えてもらおうと求め続けた。悲しい、寂しい、そんな本当の気持ちを言葉に出来ず封印したままで、ただ欲望のままに求めた。だから余計に苦しかった。
なんという遠回りをしたんだろう。
でもこれからは、目の前の娘に全力でこの温もりを伝えたい。ただ抱きしめたい。
怒る日もある、うまくいかない日もある、それでもあなたが大好きと言うその変わらない気持ちを、娘に伝わるように、言葉に態度に出して、表現していきたいと思う。いつもどんなときも、まなざしだけはぬくもりに満ちたものでありたいって思う。
そして、自分が選んで関わろうとする人、その全てに対しても、出来る限りそうでありたい。
ただそう思う。
もう悲しみの連鎖は嫌だ。
人はきっと本当に大事なことを、ただ忘れているだけなのだと思う。
すべての人間の命の価値は同じだ。
その温もりに、何も変わりはない。
それだけが真実だと思う。
だから、まずはこの世でたった一人の
自分のことをせいいっぱい愛そう。
堂々と出来損ないになろう。
ちゃんとしなくていい。
しんどい時は一日中布団に寝転がっていればいい。
何も出来なくても大丈夫。
どんな姿でも、あなたはあなたなんだから。
(完)
♢
4. あとがき
長い物語を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます✨
心より感謝いたします✨
以前三つの記事に分けて投稿していたものを、今回【完全版】として一つにまとめました。
わたし自身がこの物語を描くことによって、本当の自分の声に耳を傾け、ありのままの自分を認めて生きるきっかけになりました。
読んでくださる方がいることが、救いにも癒しにもなり、感謝の気持ちでいっぱいです✨
そして、どん底まで落ち、たとえ死にかけても、人生はいつからでもやり直せるということ、世界中の誰より何よりまずは自分を大切にすることで道は拓けるということが、今この瞬間ももがきながら必死に生きている誰かの心に届いて、少しでも楽になるきっかけになれたならとてもうれしいです。
これからもわたしは、自分をよろこばせるために、言葉を綴っていきます。
そのよろこびが、自然なカタチでまわりの人たちにも広がっていくことを願っています✨
お読みくださったみなさまが、これからもますます心豊かに生きられますように。
心音
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物語にリンクする詩作品です✨
あわせて読んでくださるとうれしいです✨
♢