短歌往来12月号から
短歌往来12月号から「短歌往来」の評論月評を担当することになりました。
急にお話が来て、いきなり「何を書こうか迷っていた」のがつい最近で、今月号を開くと「あれ?もう乗ってる?」みたいな状態になっているとは。スピード感にびっくりしています。
体調の許す限り、テンションが下がらない限りは執筆を続けたいと思っています。寒さが急に増してきたので、こういう時期に冬季うつにならないか心配ですが…。
いまの感じだと、「無理に外出してバタンと倒れる」という感じでもないので、続けられる限りは頑張ります。
さて、今回お読みになった方から「いきなり喧嘩腰で面白かった」「はっきり言ってくれたほうがよい」
みたいなご意見をいただきました。
喧嘩腰に書くことは本意ではないかもしれなくて、ただ、あんまり前提がメチャクチャに見える形で短歌というジャンルをまとめられるのはどうなのかなあという気がいたします。
今までだって、別に文学理論とかそういうものを踏襲して短歌の批評が成り立って来たわけでもないと思います。
そういう系統立てた西洋の学問体系があることをみんなわかりながら、それをいままでの短歌や短歌論をうまく絡められたことって、そんなに成功例がないのかな、と思っています。
いわゆる「歌に即して読む」歌評と、西洋の理論がどこかでごちゃごちゃになるから、あまり多くの人たちに共有されないのではないかという問題意識を持っています。
ぜひ多くの方に読んでいただきたいですが、誤解してほしくないのは、あくまで、理論というのは「歌を読む前提」みたいなもので、「歌はこうあるべき」という指針などではないということです。
一応、現代の文学理論にはどういうものがあって、それをどういうふうに活用した読みが可能かという話を今回の月評ではさせていただきました。
私なりのまとめでは、もし文学理論というのがあるとすると、「言葉」「社会」「こころ」を一首の歌に即して、あるいは連作に即して考えるための補助線のようなものとして活用できる、くらいに考えています。
それをなんかみんなごちゃごちゃに語るから読み手もよくわからなくなる。そんな気がしました。
瀬戸夏子さんの回の最終稿は、この短歌往来の原稿をふまえて書きますが、やっぱり瀬戸さんは「系統立てて文章を書くときに、「社会のこと」と「言葉のこと」をゴチャゴチャにしている気がする。
それを踏まえて、現代のフェミニズム批評や、短歌を読むときに「フェミニズム的な観点で歌を見ること」は、このジャンルに導入可能なのか、ということを考えていきたいと思います。
月評は月評でこちらとは別に考えていきますが、補足するとこういうことになります。
引き続き、私の前提をすべて開示して月評を書いていきますので、どうぞよろしくお願いいたします。