彼岸花、祖母とわたしの奇跡の花
祖母は豊かな才能を彼岸花文化に開花させた
祖母とわたしの奇跡の〈彼岸花〉エレジー
母は体が弱く、隔年ごとに入院していた。そのたびに祖母が母に代わって家事全般を面倒みてくれていた。しかしこの時だけは、運悪く父の海外出張が重なって、1カ月も家を空けることになった。つまり、祖母とふたりで暮らすことになったのだ。いつもあわただしい、父母と違って祖母はやさしく、京都の昔話や映画にも詳しい。いつも祖母と過ごすことが楽しみだった。ふたりだけで暮らしはじめた頃、祖母の用事に同行した。その帰り道に見た、野原を染める真っ赤な彼岸花が群生しているシーンは、この世のものと思えない美しさだった。
彼岸花の花のフォルムがかっこいいと思い込んでいた。だから小さい頃は咲いているのを見つけると摘んで飾りたくなった。ある日、クラスの友人たちと歩いているときに、真っ赤な彼岸花が群生しているのを見つけた。いつもながら、赤いブーケに束ねて祖母に持って帰った。以外にも祖母は花束を喜ぶどころか、不機嫌な様子で確か「彼岸花を摘んで持って帰ると家が火事になる」と不気味な言葉が聞こえた。祖母は時々物語の一部のようなそういう話しをほんの少しだけ話すくせがあった。だけど、そんな言葉は幼い子には届かない。その日のうちにすっかり忘れてしまった。しかし、何年かたった頃、それを思い出す出来事があった。隣りの小さな家内工場が火を出して、その工場とうちはまる焼けになった。火事のあの独特の匂いがあたりに充満していた。広い敷地の家や店がすべて燃えてしまった。その中でたったひとつ焼け残った臼を、祖母は無言でじっと見つめていた。成長してその光景を思い出す時、あの火事の焦げ臭いにおいと祖母が見つめる臼と、そしてそばには彼岸花が咲いていた。
祖母とふたりの生活は何もかも異なっていた。わたしたちは火事のことはどちらからも話すことはなかった。ある日の午後、祖母がぽつりと言った。「あの時、あんたがせっかく花を摘んでもってきてくれたのに、いじわる言って悪かったねー」その時は、あの彼岸花のことと思わなかった。祖母はときたま、よくわからないことを言うのだ。そのとき、祖母が彼岸花は曼殊沙華とも呼ばれていて、遠くインドから仏教とともに日本に伝わったと教えてくれた。日本全国に彼岸花にまつわる名前がたくさんある。彼岸花は毒性があるが、害虫、害獣を作物から守ったり、土葬にも役立ったというのだ。地方に伝わるいろいろな名前は、そういう彼岸花の効用を伝えているものが少なくないと祖母は教えてくれた。祖母は博識だった。わたしが知らなかった祖母を理解して、すっかり魅了されていた。
彼岸花と曼殊沙華、1000ものミステリアスな名前をもつ花
彼岸花は別名、曼珠沙華(マンジュシャゲ)。歌にも歌われ、親しまれてきた。インドではサンスクリット語(梵語)で「赤い花」と呼ぶ。《法華経》などの仏典に由来するらしい。実は、彼岸花を曼殊沙華と呼ぶのは、サンスクリット語 のmanjusakaが基になっている。興味深いのは、日本では各地で異なる名前があり、地方名は方言を含め、数百から1000種以上あるといわれている。葬式花(そうしきばな)、墓花(はかばな)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、火事花(かじばな)、蛇花(へびのはな)、狐花(きつねばな)、水田水田(すてごばな)などはその一例だが、不吉な別名が多く見られる。(※wikipediaより抜粋)
有毒成分のある彼岸花。農民は有効利用で害獣から作物を守ってきた。
彼岸花は日本列島の水田の畦や墓地に多く見られ、人為的に植えられたと考えられている。その目的は、畦の場合はネズミ、モグラ、虫など、水田に穴を作って水漏れを起こさせるなど、水田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避けるようにするためとされる。墓地の場合は虫よけや土葬の際に死体が動物によって荒らされるのを防いだそうだ。(※wikipediaより抜粋)
肋膜炎、腎臓疾患の民間療法、製薬原料にも利用された彼岸花
鱗茎は石蒜(せきさん)という生薬になり、製薬原料に用いられた。肋膜炎、腹膜炎、腎臓病などの水腫には、球根をすり下ろしてトウゴマ(別名:ヒマ)を一緒にすり鉢で砕いてすり混ぜ、両足裏の一面に布に塗って湿布、包帯を巻く。すると利尿作用により、むくみを取ることができるという民間療法が伝えられている。(※wikipediaより抜粋)
花の形が燃え盛る炎のように見える彼岸花は、《家に持ち帰ると火事になる》、といわれた。その理由は、子供が誘導性のあるヒガンバナに触るのを戒めるための言い伝えだったのかもしれない。
祖母はいろんな知識があることをわたしたちに見せなかった。けれど母はわたしが何かに困ったら「おばあちゃんに聞いたら?」と言ったものだ。祖母の知識の深さは、祖母と母の秘密だったのだろうか。父は祖母を迷信の塊のように思っていたが、子供のわたしでも、祖母とふたりになるとそうではないことがよくわかった。それだけでなく、祖母は文化芸能にも詳しかった。映画や歌、和歌や短歌にも詠われた彼岸花は、かつて季節にとって欠かせない素材だったと祖母が教えてくれた。季語は秋。与謝野晶子、伊藤左千夫、そして寺山修司も彼岸花の歌を詠んでいる、と祖母。「こう見えても、文学少女やったんよ」はにかむ祖母はかわいかった。
歌人が好んで詠んだ彼岸花=曼殊沙華の季語は「秋」
・与謝野晶子「白櫻集」
- 岬にて三原の山とふかひつつ哀れなる火となる彼岸花
⦿三原山と向かい合って咲く彼岸花は、哀れな火であるかのように見える。
・伊藤左千夫
- 曼珠沙華ひたくれなゐに咲き騒(そ)めく 野を朗かに秋の風吹く
⦿曼珠沙華がひた赤く咲きざわめいているような野を朗かに秋の風がわたっていく
・寺山修司
- 川に逆らひ咲く曼殊沙華あかければせつに地獄に行きたし今日も
⦿川岸に川に逆らうかのように咲く曼殊沙華の赤い色を見ると地獄に行きたいと願う、また今日も
・北原白秋
- 曼殊沙華そこらく赤き寺の山彼岸詣でのかげもふえけり
曼殊沙華がたくさん咲く寺の山には、彼岸に詣でる人も増えるように感じる
祖母が話した時はまだ幼くて理解できなくても、その後成長して思い出したのが、彼岸花ー曼殊沙華の映画や歌だった。季節の素材として欠かせないものだった時代の香りがいまも感じ取ることができる。
映画にみる曼殊沙華、主題歌「恋の曼殊沙華」
Youtube :戀の曼珠沙華
Youtube 登録:Holy Sprit
主題歌:恋の曼珠沙華
作詞:西城 八十
作曲:古賀 政男
祖母が好きだった小津安二郎監督の「彼岸花」、心をうけとめた
幼いころ祖母がお話ししてくれた映画、「彼岸花」。大人になってはじめて見た時、いろいろなシーンをよく覚えていたものだと感心した。母とわたしにだけ見せる祖母の感性が、わずかでもわたしもに受け継いでいたら…なんて思うのだ。
・MVI 2116 1955 彼岸花 佐分利信・高橋貞二…久我美子
・Youtube 登録者:Yasuhisa Yamamoto
・1958年製作の小津安二郎監督の日本映画。松竹大船製作所で製作。
・松竹配給。1958年9月7日に公開の映画。
最後に会った日も、あのことを気にかけた祖母
数年後、母が回復したのと入れ替わりに祖母が入院した。母と見舞いに行った時、またしても祖母は彼岸花の話しをする。わたしは16歳になっていた。留学が決まり、翌日出発という日に、しばらく不在になるから顔を出したのだった。祖母が泣くのをはじめて見た。「これが最後になるかもしれんから、あんたに謝りたい」そんなことを気にすることもないのに、祖母はこの件になると不可解な態度になるのだった。「おばあちゃん。わたしはなにも覚えてないよ。それよりおばあちゃんはわたしにいっぱいいろんなことを教えてくれた。留学先でも役に立つよ」と手を握って伝えても、祖母は寂しい笑顔を向けるだけだった。
彼岸花はわたしたちを結ぶ、奇跡の花だった。
最近になって祖母がわたしを思って気遣ってくれたことにようやく気づいた。彼岸花は火事を招いたのではなく、わたしたちが2人だけで過ごしたあの時期、祖母と孫という近くて遠い存在が彼岸花を通して多くを共有することができた。彼岸花を摘んだから火事になったのではない。あの時の花束は、祖母とわたしをつなぎ、その絆は祖母がいなくなってもずっとつながっていると感じるのである。彼岸花はわたしたちを結んだ奇跡の花だった。
*この記事はクロノカツヤさんの作品を、メインイメージとして使わせていただきました。ありがとうございます。