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自己肯定感って、いったい何だろう?
こんにちは!スピライター・Cocoです。今日は、最近巷でよく耳にするようになった「自己肯定感」という言葉についての記事をお届け。自分を好きだとか、嫌いだとか、自分が良ければいいとか、そういう話じゃないだとか。さまざまな議論がなされているこのキーワードについて、筆者が最近感じていることをお伝えできればと思っています!
はじめに~この記事を書くトリガーとなった、とあるわが家の会話
つい先日のこと。週末のドライブの道中にて、突然、運転席から夫が、こんなことを口にしてきたのです。「最近、欧米では間違った“自己肯定感”の解釈が出回っているらしい。それは、自分さえよければ他の人を軽視してもいいという考え。でも、それって本来の自己肯定感がもつ意味合いとちがうんじゃないかという記事を読んだ。ママはどう思う?」
ドライブ中の夫婦の会話にしては、ややお堅いトピックにも聞こえますが、筆者はこの問いを投げかけられてからというもの、しばらく心にひっかかり、自分なりに解釈をしようと温めておくことにしたのです。
巷でよく目にする「自己肯定感」の使われ方
ー「あなたの自己肯定感を高めて、本来の能力を発揮しよう!生きやすくなろう!」あるいは、「こどもの自己肯定感を高めよう!」ー昨今の書籍を飾る、そんなどこかで見たことのある見出したち。
恐らく、これらの文脈で使われる場合の“自己肯定感”とは、自分自身に対して、誇りや自信など前向きな感情をもっている状態をさし、だからこそ、逆境を前にしても、挫けにくく、そこから這い上がるような力にもつながる…そのようなニュアンスを内包しているものといえるでしょう。
それは確かに、筆者もそうだと思うのです。自分自身に価値を見出せないと、当然ながら、自信をもって何かを決断することもできない。すると、やりたいことも実現しないであろうし、他人軸にゆさぶられやすくなるもの。あまり良い未来が花開かないであろうことは、火を見るよりも明らかであるはずです。
でも、そもそも“自分”って肯定するものなのか
ただ、“自己肯定感”という言葉を前にしたときに、なぜか幾分の違和感をおぼえてしまうのが筆者。そこにあるのは「自分って、そもそも肯定したり、否定したりするものなのか」という素朴な疑問。自分の存在や価値に点数をつけたり、何かしらジャッジしようとすること自体が、どこか奇妙に感じてしまうのです。
「人生は、日々の選択の結果」「『最高の選択』をすれば『最高の今日』はつくられる」そんなことをモットーに、日々を冒険している筆者。選択の質にこだわるからこそ、「~でいいか」という妥協はせず、「せっかくなら~」と思える最上級のこたえを選びます。
つまり、面倒くさい、お金がかかる、誰かへのうしろめたい気持ち、何かしらのリスク、そういったことは一切ないものとして、私自身が本当はどうしたいか?という観点で、答えを考え抜いているのです。
「私は、〇〇が苦手だから」「私は〇〇〇な性格だから向いていない」足元をみれば、いくらだって、選択を阻害するそれらしい理由は思いつくことはできることでしょう。でも、それらは一旦、脇にどけておくのです。「それじゃあ、自分がそういう性格じゃないとしたら、どうしたいか?」と。
そう、自分の素質や、おかれている状況を言い訳にしていないのです。ただ、視点を向ける先は、目座す理想のゴールだけ。個人的な原因で諦めることがほとんどないため、「自分がもっとこうだったらいいのに」と思うこともありませんし、自分を評価することと無縁になったのです。
こんな思考プロセスが身体にしみこみはじめた筆者だからこそ、最近は自分のことを好きだとか、嫌いだとか、考えること自体がなくなりました。さらに、これは余談ですが、他人に対しても好きや嫌いという判断をしなくなっているようにも思えます。
自分を肯定すること、それは本心と“一致”する選択をすること、かもしれない
ということで、冒頭に夫が口にしていたような、「自己肯定感とは、自分がいちばん可愛いとか、自分がよければ他人を軽視してもいいということではない」という説は、まぁそうでしょう。
多感な時期の若者にとっては、一時的に、そうした姿勢に美徳を感じることもあるかもしれませんが、その瞬間、その若者にとって、さまざまな金銭的、時間的、空間的、能力的なハードルをすべて撤廃した場合に、「さて、あなたにとって本当にやりたいことは?納得のゆく答えが出るまで悩んで」と問えば、そこで「誰かをいじめたい」だとかそういった答えが出てくる可能性は、限りなくゼロに近いのではないかと思うのです。そして、もう一つ目を向けたいのは、この文脈に沿った場合、この若者の抱える自己肯定感は、高いものとも、低いものとも言う材料には、ならないことでしょう。
ただひとつ、わたしたちの気持ちに、仮にラベルを添えるとしたら、「自己“一致”感」とでも呼ぶべきでしょうか。そう自分を肯定するとか、否定するとか、という話よりも、自分の言動が自分の本心と“一致”しているかどうか、という観点の方が、筆者は遥かに重要であると感じていて、あえて「自己肯定」という言葉を使うとしたら、これらが一致している状態こそ、自己を肯定していると呼べるものなのかもしれません。
おわりに
本日も最後までお読みいただき、誠にありがとございました!今回は、最近、家族の中で話題にのぼった「自己肯定感」というワードについて、少し掘り下げて考えたいなと思い立ち、筆をとってみました。
“考える”ことって、何よりも面白いものですよね!今回の記事が、ぜひみなさまにとっても、思考巡りを楽しんでいただくきっかけのひとつとなれば幸いです!次回もお楽しみに。