儚ければ儚いほどそれは完璧な青春だ。【映画『溺れるナイフ』】
ジョージ朝倉原作、小松菜奈・菅田将暉主演の映画『溺れるナイフ』は、「神さん」が棲むと言われ神聖化された海のそばの町「浮雲」を舞台に、十代の若者の剥き出しで危うい恋と衝動を描いた作品だ。
伝説的少女コミックの実写映画化、神がかっていると言われたキャスティング、これが商業長編映画デビューとなる新鋭・山戸結希監督の撮る映像美と、話題性には事欠かなかった本作を観て、私が一番に感じたのは「違和感」だった。何故なのか。このレビューでは私が感じた「違和感」の正体を紐解いて、違和感を感じながらも惹かれずにはいられなかったその魅力を書いてみたいと思う。
前提として
この作品を語るうえでまず言っておかなければならないのはやはりその映像の美しさだ。主役の夏芽(小松菜奈)とコウ(菅田将暉)が二人で海に潜るシーンや、木漏れ日の降りる鬱蒼とした森で夏芽がコウを追いかけるシーン、こぼれた炭酸水を舐めとりキスをするシーン、夏祭りに出かけた夏芽の帯を街中でコウが結び直すシーンなど、数え上げればキリがないほど光溢れる美しいシーンばかり。それは後に二人を待ち受ける悲劇をより悲劇たらしめていて、後半のシーンを厚く覆う闇との対比になっている。
それからもうひとつ、主演二人の素晴らしさにも言及しないわけにはいかない。ヒロインの夏芽を演じた小松菜奈の、瑞々しいながらもどこか鬱屈した感情を内包する美しさももちろん重要だが、強く言いたいのは菅田将暉の圧倒的存在感だ。コウというキャラクターは、代々この「浮雲」という町を守る神主一族の跡取り息子で、ちょっと普通じゃない、異質な、それこそ神童のような存在として描かれている。そんなコウという役に説得力を持たせるためにはもちろん役者自身の存在感やオーラは不可欠で、そこにさらに書き手が作り上げた世界観や役の設定が合わさって、ようやくこのキャラクターにしか出せない雰囲気になるのだと思う。それを、菅田将暉は、華麗に、文句なしにやってのけた。私は原作のコウを知らないが、あの金髪の菅田将暉は、完璧なコウだったのではないかと思う。存在そのものがナイフのように鋭利で、それでいて握りしめれば容易く破裂してしまうほどに繊細で、色素の薄さや冷めた目はどこか神の世界と通じてるような神々しさを感じさせた。
そういう、画としての強度がしっかりとあることを前提として、ここから少しネガティブな感想を書いていく。私の感じた「違和感」について。
チープな「つくりもの感」
まず第一印象の感想として、私はどうしても「つくりもの」っぽさを感じずにはいられなかった。先に書いたような役者二人を含めた景色や画の美しさに心奪われながらにして、無視できなかった「つくりもの感」。私は何にそれを感じたのか。
例えば夏芽の台詞。十代の女の子特有の、まっすぐにわがままで、幼い言葉たち。原作未読なので、それが原作に忠実な台詞なのか脚本で作り直された言葉なのかはわからない。けれど、私には夏芽の台詞の多くが「パッケージされた台詞」のように感じられた。それはつまり、多感な十代の女の子が「言いそうな」という意味での、パッケージ、だ。意表を突いたり、裏をかくような言葉ではなくて、とてもまっすぐな言葉ではある。それはもしかしたら傍若無人で自由過ぎるコウの奔放な発言との対比であったかもしれないし、モデルとして必要とされるその類稀なる容姿とは裏腹に「中身は普通の十代の女の子」であることの強調、そしてそのギャップに悩む夏芽の内面を描くための土台だったかもしれない。だがそれは後から考察したときに感じたことであって、とにかくまず最初の印象としては、「なんだかチープだな」ということだった。
それから音楽。劇中、明らかにそれまでのストーリーの流れや人物の感情と、流れる音楽に齟齬のあるシーンがある。いや、もちろんこれは、作品を鑑賞したイチ観客である私が感じた「齟齬」であって、それは主観でしかなく、やはり「違和感」と言った方が正しいだろう。夏芽とコウが、短いけれど幸福だった時間を過ごした後、悲劇を経て別れ、再会するシーンだ。夏芽の心情を思えば、ここは完全にシリアスであるし陽よりは陰であり、背中合わせで存在する目を背けたい過去と問いただしたい衝動、しかしそのすべてを無効化して余りあるほどのコウへの恋心、そんな複雑な胸の内であることが、観客にはわかっている。そのシーンで流れ出すのは大森靖子が手掛けた「ハンドメイドホーム」という曲。この曲の良し悪しの話では全くなくて、問題は何故ここでこの曲だったか、ということ。
そぐわない。もちろん私いち個人の感想であるが、そぐわないと感じた。少なくともこのときの夏芽の心情に寄り添った音楽とは、感じられなかった。その違和感が、奇を衒ったようで、またしても「チープさ」だけを観る者に残していってしまったように感じられた。
出来過ぎた男・大友
夏芽とコウを見守り、いつしか夏芽に想いを寄せるようになるクラスメイト・大友。大人もびっくりの物わかりの良さ、優しさ、献身、思いやり、正義感、清潔感。出来過ぎていて、おかしいとすら感じる。あんないい奴、あんないい奴なのに、ダメなのかよ!と観客に思わせるには一番いい形でのベストな「いい奴」を、いやらしさゼロで、爽やかに完走していたのがジャニーズWESTの重岡大毅。彼はもう、叶わない恋に身を焦がすヒロインに「俺じゃダメか?」って言うポジションの全世界代表で構わない。そのくらい完璧な「いい奴」だった。
ここまで大友が出来過ぎていると、その反動でより目立つのが夏芽とコウの子供っぽさだ。大友に比べて二人はなんと身勝手なことか。なんと弱く、ひとりよがりなことか。もしあなたがこの作品を観ている最中に主役二人に対して苛立つことがあったとするならば、それは大友がいたからかもしれない。大友に肩入れしない観客などいないだろうと断言したくなるくらい、彼は出来過ぎなのだ。
意図するところは
ここまで違和感について突き詰めてみると、ある考えが避けて通れないほど大きくなってきてしまったことに気が付く。もしかしたらそれらすべてが監督の狙いなのかもしれない、と。
パッケージされた言葉も違和感のある音楽も、逆に言えばその拭いきれないチープさが、あまりにも儚くてあまりにも幼い青春そのものを表現しているようでもあって、同時にそのこわれもののような青春が神々しく尊いものであることは疑いようがなくて、映し出される画の美しさがそのことを十二分に表現していた。
出来過ぎた男・大友だって、彼がいることで主役二人の子供っぽさが際立つとすれば、逆に言えば、二人のその刹那的な輝きの跳躍力を伸ばすために一役買っているとも言える。
この映画はあるひとつの青春映画のかたちを提示したと私は思う。それは、きれいに完成されたパズル、あるいは美しく積み上げられたブロックや積み木の城でもいい、そういう、完璧にしつらえられたものが、ぐにゃりと時空が歪むように盛大に壊されることで、壊す前が最も美しかった、素晴らしかった、壊れてしまったことがさらにその価値を上げた、という青春至上主義の皮肉な証明である。観客に「チープだ」と思わせるかもしれないリスクを抱えたまま、ここで描く青春が完璧な青春たりえるように、しつらえることを優先したのではないか。
全能感が強ければ強いほど、後にそれが壊れたときの絶望感はより一層くっきりと浮かび上がる。美しく、かけがえのないものは、得てして手に入らない。そういう唯一無二の、その後の人生に強烈に影響を及ぼすような青春という名の思い出。そういうものを、いっそまとめてぶん投げて行かないと大人にはなれない、むしろ青春なんてぶん投げられてなんぼなんだと、そう思うラストだった。そして、美しければ美しいほど、ぶん投げる価値がある。
公式HPに載っていた原作者ジョージ朝倉のコメントにこんな一節がある。
担当編集が一言、「映画は100点じゃなくていい」。
100点の向こう側!最高だ!!
何かがトゥーマッチだったり、何かが欠けていたり、そういう減点方式ではなくて。リスクを冒してでも到達したい何かがあった、そういうことなのかもしれないと、このコメントを見つけた時に、どうして私がなんだかんだ言ってこの映画に惹かれたのか分かったような気がしたのだ。