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『見よ、飛行機の高く飛べるを』


                          =芝居の観劇感想です=
永 井  愛(二兎社)  脚本
三 浦  祐 介     演出

※  明治44(1911)年は、日本で国産民間飛行機の初飛行が行われた年。
同年、平塚らいてうらによる『青鞜』が創刊された。
「元始、女性は実に太陽であった」の巻頭文で知られる雑誌である。
それを読み「日本の女子も天高く羽ばたかなくては」と考えた女性たちが女子師範学校にいた。女子教育とは「良妻賢母」を養成すること、という学校の方針に敢然と立ち向かった生徒たちの運命は!



 先生役は年齢が上に、生徒役は年齢が下に見えて、上下関係が見るものに混乱なく理解できた。上級生、下級生の区別すらも無理なく馴染むのは、言葉遣いをはじめ衣装や仕草など細部にわたる演出が成功している証左だろう。現代よりもはるかに上下関係が重視された儒教思想が受け入れられていた時代の雰囲気をよく伝えていた。

 それにより令和を生きる観客は、女性には選挙権もなく、女性に教育など不要だと思われていた、有り体に言えば「女は男より劣る生き物」と考えれれていた明治に難なくタイムスリップすることができた。



 そんな時代、名古屋の第二女子師範学校というのは、女性なのに教育を受けることができる限られた女性たちの世界と言える。

 国産民間飛行機が歴史的初飛行をした明治44(1911)年は、明治政府が掲げた富国強兵、殖産興業が功を奏し、日清・日露の両戦争に勝利し、列強と同盟を結び第一次世界大戦へと突き進んでいく帝国主義の時代である。主権は国民にではなく天皇にあり、日本は大日本帝国と名乗り朝鮮や清の一部に植民地を持っていた時代だ。

 一方で、アメリカ留学から帰国した津田梅子はすでに女子教育のための英語塾(今日の津田塾大学)を創設しており、各地に女子教育機関ができはじめていた時代でもある。

 津田梅子の功績は7月から使われはじめた新札の肖像になっていることからも明らかなように、日本の女子教育が、思想としてだけでなく実際に婦人参政権を求め、憲法改正運動にまで結びついていく大正デモクラシーへと連なっていったところにある(ただし、普通選挙の実施は太平洋戦争終結を待たなくてはならなかった)。


 象徴的だったのは「新聞を読む女性」として描かれた杉坂初江である。

 アメリカの圧力で江戸末期に開港した横浜には、海外からの文物のほか文化や思想も入ってきた。その一つが日刊新聞である。江戸時代にあった瓦版は、伝聞に空想を交えた読み物だったが、日刊新聞は事実をそのまま伝える新たなニュースメディアとして登場するや、日本各地に新しい時代の息吹を吹き込む役割を果たした。政府批判なども盛んに行われ、明治政府はこれに讒謗律という言論統制で応じた。

 今日、ほとんど影響力を持たない新聞ではあるが、この当時は日本各地で千を超える新聞が創刊され、自由民権思想の拡大を支えた。


 また、日本文学史的には自然主義の嚆矢とされる田山花袋の「蒲団」を光島延ぶの朗読で読むシーンは、当時、全く新しい文学のあり方として人の尊さだけでなく愚かさや欲望をありのままに描こうとした文学が、読者にどう受け止められていたのかが生き生きと描かれた。

 恋に恋する女として描かれた木暮婦美は、その恋に足元を掬われるようにして退学してゆく。人がありのままに自分を肯定して生きてゆく時、こうしたことも起こり得るのだということを決して教訓を垂れるようにではなく、人としての一つの生き方としてそのまま写実的に描いた点が心を打った。

 また、木暮を退学を導くことになる板谷潤吉と板谷わとの演技も、登場機会こそ少ないが重要な役割を果たしていた。住み込みの用務員という役どころの板谷わとは、他のすべての登場人物が情熱や感情の昂りを表現していたのに対して、静かに淡々と、杖をつきながらゆっくりと歩くその歩調からも、激動の時代の外側であたかも芝居でも眺めるかのように時代の推移を眺める姿が実に印象的だった。師範学校という特別な世界のすぐそばに、教育を受けられなかった側の女性として登場するわとの演技は異彩を放っていた。そして、単なるアクセントとしてではなく、親子関係も描かれた。子を思う母は美しかった。


 一方、息子の板谷潤吉も新しい時代の風を感じて、何者かになろうとしてもがく若者だった。私には、まるで今の若者に対するアンチテーゼのように見えた。引かれたルートの上を、失敗をしないようにしないようにと言われ、道から外れてしまうことを極端に恐れて生きる今の若者への痛烈なアンチテーゼ。

 かんざし職人としての道を外れ、では何になるのかという未来図もないまま、情熱の赴くままに木暮婦美に口づけをして、消える。情熱的で刹那的だが野放図ではなく、やりたいことをやるのだが無責任ではなく。やはり時代の空気を吸って生きるもう一つの若者の生き方を演じて見せてくれた。そうやって板谷潤吉は、物語をストライキへと向かわせて姿を消すのである。

 女子なのに教育を受けているエリートの群像の中にあって、全く違う属性の人間が回転扉となって物語を回す。この2人の存在は物語に重層性を加える大事な役回りだった。



 教師役は、二色に分かれる。

「新しい女性」に肯定的な新庄先生と安達先生と中村先生

「新しい女性」に否定的な菅沼先生、青田先生と難波校長


否定的な先生方は一枚岩である。主張も明快でブレがない。

一方で、肯定的な先生はグラデーションだ。


新庄先生は、禁書を生徒に貸す先生という役を演じるが、それは思想的背景からそうしているというより、あまりに美しく聡明な生徒である光島の歓心を買いたいが為である。
ずっと伏せられてはいるが、光島も「新庄先生の物真似をして笑いものにしない」という行為が明かされる。

後に、新庄先生に告白され結婚を申し込まれた時、天にも上る気持ちになって受け入れ、ストライキもバード・ウィメンの発行もやめてしまう唐突さを和らげているのは、この布石があるがゆえである。観客はラストになって、「あー、新庄先生の物真似をしないのが伏線だったのだ」と気付くのだ。校舎で道を間違えることすらも伏線だった。



安達先生は、新しい女性像を実現させようと理想を追い求める新しい教師として描かれる。しかし、校長との対話のあと、態度を豹変させて生徒にストライキをやめるよう説得する。それは強制に近いものだったが、そこに先生の優しさが滲む。校長が口にした「警察」という言葉。それが意味するところを理解したのだ。

 大逆事件という名前が何度か語られるが、これは幸徳秋水ら左翼思想を持つとされた文化人たちが逮捕されて獄に繋がれるという事件だ。しかし安達先生は、捕まった人たちがたび重なる拷問の末に殺害されたことを知っていたのだ。

 そして、「思想に殉じれば良い」と考えるのではなく、与謝野晶子が詠んだように「君死にたもう事勿れ」と考えたのだ。可愛い生徒を死に追いやってはいけない。玉砕でなく退却を選んだのだ。これはなかなかできる決断ではない。

「志を曲げるくらいなら、美しく死ぬべき」

そう考える人が多かった時代だ。こうした迷いの末の決断を、懊悩の挙句の転向を安達先生は見事に表現して見せた。

 与謝野晶子が『青鞜』に寄稿した文章そのままに目覚めて「新しい女性」を生きた安達先生。
しかし、教え子を1人たりとも死なせてはいけない、与謝野晶子が、ロシアに勝って国威を発揚するなんていうことより、自分の弟の命を守りたいと表出したように、自分もまた、かわいい教え子を1人たりとも死なせてはならないと考えたのだ。
鬼の形相で生徒にストライキからの離脱を迫る優しさ。そんな困難を見事に演じてくれた。感動的だった。


 一方の新庄先生は、新しい女性像、新しい思想などより、自分の恋に盲目になった男として描かれる。実は、これはこれで「新しい男性」なのだと気付く。

新庄先生は、一貫してへなちょこである。道を間違えたと言って可愛い女生徒を追いかける変態教師。自分の読んでいる本が禁書だと知りつつ、生徒に媚びて貸してしまう。青田先生の一本筋の通った男らしさとは対極にある。

 しかし、物語の結末を決めるのは新庄先生である。

でもそのやり方は、正しい思想は「良妻賢母」であると説き伏せたわけでも、「大切なのは命なのだからここは一旦名誉ある撤退を」と説き伏せたわけでもない。ただ、好きな女性に好きだと言っただけである。令和の現代からみれば「それがどうした?」と言いたくなるような平凡極まりない台詞だ。

 しかし、
「日本男子たるもの、天皇に忠誠を尽くし命などいつでも投げ捨てる覚悟を持つ」ことが至上の美徳とされた時代。
新庄先生の生き方は、あまりにも「新しすぎる男性」の生き方だったのではないか。
実は、最も自然主義を地で行ったのは新庄先生であり木暮婦美ではなかったか。


 では、「新しい女性」を飛行機が高く飛ぶのを見て、女性だって自由に羽ばたけるはずと考えた杉崎初江はトリックスターに過ぎなかったのか。

そんなことはない。自分の生活の安定。いい学校を出て、いい会社に入って安定した暮らしを手にいれる。

 杉崎の生き方は、まさに令和の日本人のスタンダードになっているそうした生き方への強烈なアンチテーゼになっていると思う。

 一人一人が自分の安定だけを求めて行動したら、女性の地位などいつまでたっても上がらない。男女が平等になって初めて、男も女も能力を十二分に発揮できる世の中が作れるのではないか。

 そういう世の中を作るのは誰なのか? 

 大変なことは誰かにやってもらいたい、ではなく大変なことこそ、それを大切だと思った人間がやらなくてはならない!と生きて見せてくれたのだから。

 最後に、光島に農民出身のコンプレックスをぶつける場面もある。転向したように見える光島そのものを否定するようなことも口走る。


 歴史は教えてくれている。

 こうなった時、大抵のムーブメントは潰れる。内部分裂、粛清。お決まりのコースだ。


 しかし、そこに行かず「学校を卒業し、結婚してからやり直せばいい」という光島を、思想的にではなく、1人の幸せを追う人間として認めたから、「ストライキ中止」「ストライキ継続」と結論が別れても、信頼関係を壊さずにいられたのではなかったか。


 最後に二つの異なる結論に至りながらも、二人が信を保ち続けられたのは、思想VS思想ではなく、人と人として互いを認められたからではないないのか。


 杉坂が最後まで自分の道を貫けたのも、光島という自分を人として見続けてくれる存在があったからだろう。


 考えが違っても、人と人は尊重できるし共存していける。

 人々が、一部ではなくすべての人々が幸せに生きるために思想があるのであって、その逆では決してない。思想を守るために死を容認してはならない。

そのために人を愛し、愛されることが分断されてはならない。


 談話室で、異なる結論に至りながら、同じ未来を夢見ることができたふたりの女性に拍手を送りたい。


新しい思想を生きたいと願う安達先生

なのに生徒の命を守るため転向する安達先生


新しい女性を生きる光島

なのに自分への愛を受け取ってストライキを止める光島


二人の女性の重層性が、思想一辺倒でない人の在り方を生み出し

一方で、安定一辺倒の現代人を照射する

普通選挙も実現していない明治を描きながら、現代を生きる我々にも通じるメッセージを送る。足を運んで観るに値する芝居だった。