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中川 綾さんの肩書きを一緒に考えながら、学校のことや教育について聞いみた

クラウドボックスが出会ったひとVol.3
[対談]
中川 綾(株式会社アソビジ代表) ×
徳永健(クラウドボックス代表・ご当地かるたプロデューサー)

 中川 綾さんが代表をつとめる株式会社アソビジは、「大人が楽しんでいれば、子どもも楽しく生きることができる」という想いのもと、教育機関・企業・行政の大人に向けて、アソビを通したチームビルディング研修やワークショップなどを行う会社です。コーポラティブゲームという、競争ではなく協力しながら楽しむゲームの開発もしていて、クラウドボックスは、そのゲームのデザインを通じて、一緒にものづくりをしてきたという間柄。
 クラウドボックス創業の頃からという、長いお付き合いなのに、「中川さんって普段は何してるひとなのか、よく知らないよね」ってところから話は始まり、いま、中川さんが考えていることなどを聞いてみました。

2022年9月19日 下北沢 株式会社アソビジ オフィスにて/ 文・竹野 恭子

ーーー中川さんとのお仕事のはじまりが、クラウドボックスのはじまり。
と言ってもいいくらいの間柄ですよね?

徳永 中川さんは、本当に色々な側面を持っていて、我々はほんの一部しか知らないんですよね。自身の会社以外にも、さまざまな団体の理事だったり、委員だったり、いろんなところで、いろんな関わり方をして活動しているから、把握しようとするほうが無理があるっていうか。

中川 そういう印象なんですか…(笑)

徳永 この人はいったい何者なのかというのを、クラウドボックスが装丁とかをやらさせてもらった、中川さんの著書「あたらしいしょうがっこうのつくりかた」(2019年刊)で、初めて知ったみたいなところありましたしね。経歴含めてね。「ああ、それでこういう仕事にたどり着いたのね」って妙に納得したりしたのは、実はつい最近でした。

中川 一番最初は「シャベリカ」を作った時?

徳永 いや、フォーコネクション(中川さんが以前立ち上げていたNPO)のホームページの修正だったと思います。

中川 ほんとですか? 完全に「シャベリカ」だと思ってました。

徳永 僕の師匠でもある、グラフィックデザイナー(現在は映像作家)の仲雷太さんから、「リコーの仕事で知り合った中川さんっていう人がホームページを更新できなくて困っているんだけど、やらない?」って言われたのが最初。仲さんは「多分この中川綾って人は化けるはずだから、つきあっておけ」と言われたのをよく覚えています。それがクラウドボックスを創業してすぐか、そのちょっと前くらいだったかと。

中川 仲さん、そんなことを言ってたんですか…。クラウドボックスと出会ったのは、その仲さんの紹介だったってことはよく覚えています。

徳永 そのあと、トークテーマカード「シャベリカ」を一緒に作ったんですよね。

中川 そうそう。おかげさまで「シャベリカ」はもう、本当にロングセラー商品で、2008年からずっと、アソビジの主力商品。2017年に「シャベリカ-宇宙兄弟Edition-」も誕生するわけですが、それも一緒に作りましたね。

徳永 昔の、吉祥寺駅にあったスタバで打合せした時は、365枚のトークテーマがあって。

中川 ああ、覚えてます、覚えてます。日めくりみたいな365ページのトークテーマカードにしたいって思ってて。単語帳みたいにしたらどうだろうって持ちかけたんですよね。

徳永 365枚の単語帳って厚さ10センチぐらいになりますけど、どうします? みたいな話して。そんなの持ち歩く人いますかね? って話になって。いろいろ相談してるうちに、トランプの52枚ってどうですかっていう話が、多分ウチの佐藤さんから出て…。

中川 そうそう。サトコバさんが「トランプだったらどう?」って。「それだよそれっ!」てなって。残りのテーマは一覧表にして配ることにしたんですよね。そういうアイディアを一緒に出してくれる存在だった。感謝してます。

徳永 「シャベリカ」って名前も、多分その日のうちに決まって。

中川 いろいろ候補は出たんだけど、これがいいかもってなった気がします。

徳永 アイデアを集結してモノを作るという楽しさや、苦しさを体験させてくれたのはクラウドボックスにとってもすごくよかったですね。2019年に「吉祥寺かるた」を作ろうってなったときも、中川さんとの体験があったから、すぐ動けたっていうのもあると思います。

中川 それこそ、今「アソビジ」の通販サイト「COPORA」でも扱わせてもらってる、御社の「まちカタルカ」なんか、「シャベリカ」の兄弟分というか。

徳永 ホントそれ(笑)。中川さんからはじまった、クラウドボックスの新しいつながりって、本当にたくさんあって、クラウドボックスの成分の数パーセントは、中川さんでできているといっても過言ではない。しかもけっこうな割合かと…。

アソビジが開発したゲーム。中央奥のトランプサイズ3点・左と中央が「シャベリカ」。
右がクラウドボックスが開発した「まちカタルカ」

ーーーそもそも、「中川さんって何やってる人?」って聞かれたときに、クラウドボックス目線だと「ゲームとかはんことか、手作りしてる人」って言いたくなるんですが…

徳永  職業は何ですかって聞かれて、なんと答えますか? アソビジのWebサイトには「組織開発ファシリテーター」って書いてありますよね。

中川 それが一番困るんですよ。肩書はホント難しい。ファシリテーターと名乗ってて、そうかなと思ってたけど…やっぱり違和感があって…。
今やっていることはファシリテーターじゃないな…とか、じゃあ、コーディネーター? 違うな、じゃあもうカタカナの何ちゃらかんちゃら、とかって名付けてみるんだけど、それも違う。どれもしっくりこないっていうのが正直なところなんですよね。
「なんですかね?私?」っていう感じがいつもあって。私としては何でもいいんですけど、周りは肩書きが知りたいから、どうしましょうってなる。「職業・中川綾」なんだけど、って言いたい。

徳永  職業・中川綾っていうのは、中川さんを知っている人間からすると「うん。そうだよね。」ってすごく納得できると思います。ビジネス向けってなると、何だろう? 「遊びとビジネスを繋げる会社の社長」?

中川 それで納得してくれる人はそれでいいというか。でもアソビジという会社の社長として会うひともいるけれど、そうじゃない時っていうのもあるから。

徳永  七変化ってわけじゃないけど、状況に応じて立ち位置がシフトするからぴったりの肩書って難しいですよね。以前も中川さんの肩書をいろいろと考えてみたことがあったんだけど、やっぱり僕からしてもしっくり来るものが出て来ないんですよね。
中川さんが常に持っている仕事のテーマ? 軸? とかなら言葉にできますか?

中川 私の中ではやっぱり教育っていうのがあると思うんだけど、「教育者でしょ。」って言われると、「教育者じゃないな」ってなるんですよね。

徳永  そうですね。「教育者」って言われると、子どもたちがいて、そこでTeachする人っていうイメージをなんとなく持ってしまうから、そことはちょっと違う。

中川 それだけやってるわけじゃないし、教育の研究してるわけでもないし。

徳永  教育の環境を作ってる人?

中川  私も困るんですよね。先日も講演会で話をしてくださいって言われた時に、肩書どうしようかってなって。先方が出してくれた肩書きが「学校づくりコーディネーター」だったんですが、「コーディネーター」っていうと、あっちこっち整理して集めてきて整頓するっていうイメージがあって。確かにそれもやっているんだけど、もうちょっとプラスしたい気持ちがあるんですよね。

徳永  そうですね。「洋服をコーディネートする」って言ったら、既にあるものをアレンジするってことですしね。

中川 結局その時は「学校づくりファシリテーター」にしてもらいました。

徳永  「ファシリテーター」というと、今の日本では会議進行役みたいなイメージの方が強くなっちゃってるけど、支援促進する人という本来の意味での「ファシリテーター」っをくみ取って欲しいってことですよね。

中川 「支援促進する人」という、広い意味でのファシリテーターの役割は、まだ認識してもらいづらいのかなと思います。

徳永 僕の姉は絵本の仕事をしているのですが、肩書を考えたときに、絵本作家とも違うし、コーディネーターって言われるのも違うし、評論家って言われるのも違うって言って、「絵本家」って名乗ってます。

中川 いわゆる何かの教育をするんだとか、子どもを育てるというところとは違うアプローチでいたいと私は思ってるから、「仕事のテーマは何?」て聞かれたら教育かなって思うけど、「教育の専門家です」とは絶対言わないし、思ってないです。
だからいつまでたっても「自分は、よくわからないまま、専門的なものをずっと持たずにここまで来た」という感じがあります。
最近のことでいうと「学校つくった経験ある人なんてそんなにいないじゃない?」って言われることもあるんですけど、「学校づくりのプロ」ではないですし。

徳永 「専門家です」と名乗って、30年40年ずっとやって来た人はわかりやすくていいかもしれないけど、中川さんはやっぱりいろんなものに手を出しているからこその今の価値みたいなのがあって。ゲームづくりもやってるし、先生もやってたし、いろんな組織も運営したし、学校つくる側もやったし。

中川 そうですね。「何者?」って言われると、答えに困りますね。

徳永 今のところ、中川綾に当てはまる日本語はございません(笑)。

中川 本当に(笑)。相手と環境によって話す視点が変わる。という感じがとてもあって、何かを依頼されたときに「この人はこのテーマで話してもらいたいんだな」「求められてるものはこれだな」「今回はこの感じ」で話せばいいんだな…みたいなことを認識してから話す。そういうシーンは確かに多いと思います。

徳永 まさに七変化的な…

ーーー中川さんの根底に「教育」というテーマが流れているのは、イエナプラン教育に出会ったからですか?

中川  いいえ。自分自身の体験からというのが一番大きいかと。私は教育に対して、選択肢があることが大事だと思っていて、一人ひとりに合った学び方とか、環境っていうのがあるはずなんだけど、その環境設定が日本には少なすぎるから。人はみんな違っていて、学び方とか楽しみ方もみんな違うはずなのに、同じ学び方をする学校がほとんどだっていうところがおかしいし、まずいよねって考えてきました。

徳永 それはいつのタイミングから考えていたんですか?

中川  高校生? 大学生? もっと前かもしれないです。
自分が大学受験をしようと思った時に、何で得意なもので判断してくれないんだろうって…。私をこの大学に入れてくれたら絶対頑張れるのに、なんで5教科で判断するの?っていうフラストレーションがあって…。
自分が受験のないエスカレーター式の私立で育ってきちゃったから、のらりくらりと与えられた勉強と経験だけして、高校まできちゃったわけで。いざ行きたい大学に行こうと思ったときに、学力ないから試験に合格できないっていう状況にすごくモヤモヤして。やりたいことは見つかっているのに、その道に行けないっていう腹立たしさとか、悲しみがあった。そこですよねスタートは。

徳永 僕もそういうフラストレーションは割と抱えて生きてきたほうで。大学には入学したんだけど、演劇学科に進みたくて演劇(劇団)やってるのに、ドイツ語落して先に進めないみたいな。「もう意味わかんねー」とか思って、僕の場合はそこで大学を辞めちゃうんだけど。でも中川さんは、その環境自体を変えて行きたいっていう方向に進んでいくわけじゃないですか。新しい選択肢を自分が加えていこうとするというか。

中川 選択肢がある方が自然じゃない? ってすごく思って、「日本だったらどうしたら実現できるの?」っていう思考になりました。
私が大学生のときに、いわゆる公設民営学校(市民が学校を作っていく)制度を日本にも入れようっていう活動をしてる先生や研究者がいて、そこの情報が私にも入ってきて、勉強会に参加したりしていたんです。どんな風に日本の制度を変えようとしているのかはわかってきたんだけど、「制度を変える」っていうところに私自身はあまり興味が持てなくて。制度を変えるのは誰かがやってくれるだろう、そういうのが得意な人たちが、制度を変える運動はしてくれるだろうって思って、制度が変わったときに動けるように、現場で実践しときたいなって思ったんです。
そこから「多様な選択肢のある学校をつくるぞ」っていうことだけを、ずっと頭の中に掲げていて、じゃあそれを実現するためにはまず何をしなきゃいけないかを考えたときに、やっぱり学校現場のことを知らないで、外から「今の学校教育は駄目だ」とか、「こういう風にしたほうがいい」みたいなことを言っても誰も話を聞いてくれないだろうって思ったから、まず教師として現場に出ました。

徳永 「先生になろう」が先にあって、そこで壁にぶつかったから「教育の環境を変えていこう」じゃなくて、まず教育の環境に対するモヤモヤがあったから先生になったということですか?

中川 というか私、中三のときには教師になりたいと思ってたんですよね。だから大学に行かないとってなったわけですけど、エスカレーター式で行ける大学は国語の先生にしかなれなくて。「いやいや私、得意な体育の先生になりたいんだけど? それじゃ、私の夢は実現できないの?」ってなって。
その後いろんな人の反対を押し切って大学受験をしたから、その受験はものすごく私に暗闇を与えたし、人権がないなって感じるような浪人生活もあったし。そこでいろいろ考えたんです。

徳永 学校をつくるっていう目標というか、野望を持ちながら、教員として働いて、その後会社なんかも作っていくわけじゃないですか。その発想はどこからきたものなんでしょうか?

中川 すべての経験が繋がっていると思います。私立の女子校で3年間働いたあと、いろいろな現場を知っておきたかったから、公立でも働いてみたいなって思っていて。だけど、公立校で働くには採用試験に受からなきゃで、すぐにはそれができなくて。そしたら大学の同級生で公立で働いていた友だちが、特別支援学校の人手が足りてないから講師で働かないって言ってくれたんです。それまで障がいを持った人たちとの関わりが一切ないまま学校現場に出たっていうのが、ものすごいコンプレックスになっていて。友だちが持ってきてくれた話は公立だし、特別支援学校だし「もうぜひやらせてください!」ってすぐなりました。そこでの経験は、私にとって本当によかったと思えるものになりましたね。

徳永 「あたらしいしょうがっこうのつくりかた」にも書いてありましたね。

中川 ものすごく勉強になったっていうか、本当にここに来てよかったっていう実感がありました。多様性っていう言葉がそのとき私の中にあったのかは定かじゃないのですが、「人にはそれぞれ、その人に合った学び方があるはず」ということはあって、それができるのはどういう環境なんだろうってことはずっと考えていました。
一人ひとりの学び方に合わせて、自由な学びができる学校をつくりたいと、ぼんやり思っていたところに、徐々にPBL(Project Based Learning)や、アメリカのチャータースクールの情報が入ってきて、チャータースクール制度に興味を持つようになったんです。それでアメリカに1週間だけでしたが、まず行かせてもらったときに視察した学校が、PBLだけで単位を取って卒業していくっていう学校だったんですよね。

徳永 PBLって、今やっと日本の学校などでよく聞く言葉になってきましたよね。

PBL=問題解決型学習(Project Based Learning)
「課題解決型学習」とも呼ばれ、知識の暗記などのような生徒が受動的な学習ではなく、自ら問題を発見し解決する能力を養うことを目的とした教育法のこと。生徒自身の自発性、関心、能動性を引き出すことが教師の役割であり、助言者として学習者のサポートをする立場で学習を進めて行きます。
また正しい答えにたどり着くことが重要ではなく、答えにたどり着くまでの過程(プロセス)が大切であるという学習理論のことで、1900年代初頭アメリカの教育学者ジョン・デューイが初めて教育現場で実践に取り入れたとされています。

出典:キャリア教育ラボ

中川 私がアメリカに行ったのはもう18年も前のこと。私がつくりたいと思っていた学校の形態に近いなと思って、このPBLを日本の学校の中で実践するにはどうしたらいいかってことを考え始めて…。それで、アメリカのPBLの学校に3ヶ月ぐらい滞在させてもらって、そこで学んだことを生かそうとNPOを立ち上げたのが、その後会社を設立するきっかけになっています。公立学校の中にPBLのプログラムを総合的学習の時間とかに導入していく手伝いができればいいなと思って立ち上げました。まず現場が欲しかったというか、徐々に公立学校に関わっていく方が、一つの学校をつくるよりも、インパクトがちゃんと広がっていくのではないかという思考で、PBLを実践していくためのNPOを作りました。

徳永 そうやって考えると、肩書きには困るけど、今までやってきたこと、今やっていることは10代の頃から全くぶれてないんですね。

中川 そう、ぶれてないです。やっていることは変化しているのですが、進んでいる道は変わってないと思います。その道を進む中で出会ったものの一つが「イエナプラン教育」でした。アメリカに3ヶ月行っている間に、イエナプラン教育を日本に紹介したリヒテルズ直子さんから、「オランダにもおいでよ」って言っていだだいてオランダに行きました。オランダにも市民が学校をつくれる制度があって、その実際を見させてもらいました。オランダの制度の方がアメリカよりも国がちゃんと力を入れているように私には見えて。オルタナティブな教育を国がちゃんと把握していて、学校をつくるときも町の人たちに色々なオルタナティブ教育を紹介したり、市民が「こういう学校がよい」と決めてつくり始めるという流れがあるのが見えたんです。

徳永 いわゆる日本のフリースクールみたいな感じでは全然ない?

中川 オランダは公立も私立も同じように国からお金が出ているから、お金の面での差はあまりないんです。アメリカのチャータースクールも公立学校として扱われています。「多様であることが大事」を土台にしているのは、アメリカもオランダも同じでした。

ーーー「多様であることが大事」というのは、個々の学びに対してではなく、「学校教育(環境)の多様性」ということですか?


徳永 日本も今、少しは変わってきてはいるけど、20年前のアメリカと比べても、「子どもたちの通るルートは一本だけ」みたいなのが、まだくっきりしますよね。なんで日本はその多様な教育みたいなのが広がりにくいのでしょうか?

中川 国が定めている学習指導要領は、もちろんとてもいいことがたくさん書かれてて素晴らしいものなのですが、ちょっとだけ細かすぎるうかな?と思うところもあります。
現在の日本のシステムは、どんなに過疎地域であっても、日本全国等しい教育が受けられる。すごいことですよね。どの学校も立派な校舎があって、校庭も必ずあって。
だけどそうした時代が少し終わってきていて、文科省も多様性という面を重視するようになってきているし、個別最適化の学び、協働的な学びを重視するようになりました。

徳永  不登校の子どもたちがとても増えているという問題にもつながっているんでしょうね。

中川 例えば、不登校に関しても「子どもがおかしいんじゃなくて、学校の環境がおかしいのだ」と言われるようになってきました。学校に行きづらい子どもたちへのサポートに力を入れていくのはとても大切なことだし、救われている人たちもたくさんいるのですが、そこには「学校ではないもの」をつくっていくことが多いんですよね。

徳永  学校が本ルート、そこに合わない子たちは学校以外のフリースクールみたいな図式になっちゃうってことですよね。

中川 実は日本にも不登校特例校という一条校をつくることができる制度があります。たとえば教科時数という、年間で何時間どの教科を学ばなきゃいけませんよ、という標準の時数があるんですが、不登校特例校だと、それをちょっと緩和したカリキュラムにしたりして、通う人たちのリズムに合わせた学校をつくることができるんです。

今、日本全体で不登校がこれだけ深刻なのに、不登校特例校はまだ全国に21校しかない(令和4年10月現在)。1校も設置されていない県があるとも言えるわけです。フリースクールに通っていても、公立学校の校長先生が認めれば出席扱いにすることができる、という方向性にはなってきているけれど、現状は、認めない校長先生がいるとか、フリースクールの質の担保はどうなるんだという話になってきたり…。本丸の部分を変えないで、問題が出た部分にどんどんプラスしていくことでちょっといびつになったり、余計大変な状況になってきている部分もある気がするんですよね。

徳永 増築に増築を重ねて、ちょっとアンバランスになっちゃってる感じですね?

中川 そう、リフォームがおかしいことになっている。制度の根本を変えていくというのはとても難しいことだと思うし、さっきも言ったけど私はそういうのは得意じゃないので、今ある制度を最大限に活用して、改革をしていきたいっていうのが、私のやりたいことなんです。

徳永 結局今、制度を変えようって言ってる人は、今の制度の中のど真ん中を走ってきた人たちが多かったりすると思うし、先生たちも、個々に合わせた教育をしなさいって言われても「どうやってやればいいんですか?」ってマニュアルを求めるみたいな人が多いと思うんですよね。
結局、答えは一つ、学校という像は一つ、卒業っていう資格は一つみたいな、その「一つ」だけが学びじゃないよね、教育じゃないよねっていう風にの変わっていかないと。

中川 「みんなで足並み揃えて」になりがちですよね、やっぱり。今はみんなで足並み揃えて「個別最適化やりましょう」になっているようにも思えて、それだと先生たちの個別最適化が難しくなってしまわないかなぁ、と思ったりもします。

徳永 教育と学びって本当は違うじゃないですか。教育っていう言葉は、その学校を卒業するというか、学校教育というものともすごくイメージの中でくっついているから。そうするとなんとなく1本のレールの中を進まなきゃいけないといったイメージを、僕でさえ持ってしまう。でも生きるために必要なのは、学んで成長することで、それってルートは無限にあるはずだし、学びは無限だよねって言えば、素直に受け入れられる感じがします。

中川 だからやっぱり「教育そのものが多様」であるといい、っていうことですよね。学びの多様性だけじゃなくて、学校教育の多様性を求めますっていう方が、私もしっくりきます。

ーーー実際に、「大日向小学校」という学校をつくってみて、自分の中で変わったことってありますか?


中川
 学校をつくる前に、「一校つくったところで日本の教育なんか変わらないよっ」て言われたこともあったし、それもそうだなと思ったときもありました。だけど一校つくってみたら、教育委員会の人たちや、興味を持ってくれた人たちがたくさん学校を見に来てくれて「少しずつ何かやってみようかな」って人たちが増えたのも事実です。

徳永 今、大日向小学校の理事は退任されたわけだけど、そこから見えてきたことはありますか?

中川 今年の6月ぐらいだったかな。古くからの知人に久しぶりに会ったんですよ。大学の先生をしていて、イエナプラン教育のことも詳しい人で。でも、イエナプランの学校が一校できたっていうことを知らなかったんですよね。あと、ちょうど大学の1・2年生の教職とってる子たちに向けて話をして欲しいって依頼をされて、そのとき「イエナプラン教育って聞いたことがある人はいますか?」って学生たちに聞いたら知ってる人、1人しかいなかったんですよね。
そういう事実に直面して、私はなんて井の中の蛙というか、子どもをイエナプラン教育の小学校に通わせたいという興味関心を持っている人たちには知ってもらえたかもしれないけれど、その他の教育の現場に近い人たちにさえも届いていなかったんだ、と気がついてしまったんです。

徳永 数の理論的な部分ってことですよね。

中川 そう。イエナプラン教育が知られていないとか、大日向小学校が知られていないとか、そういうことではなくて、やっぱり「数の論理」には、一つのものを大きく変えていく可能性があるって痛感したんです。
だから今度何かをやるときは、それをいかに数を多く、質を担保した上で、困ってる人たちのところに届けるにはどうしたらいいかを重視して考えたいです。
今も最初に立った道に同じようにいるけれど、歩んでいる間に得た経験によって意識が変わっていった部分はやっぱりあります。東北の大震災のときに石巻市内の小学校の復興支援に携わったときもそうだったし、自分で新たな経験を得るたびに、意識が変わって、取り組むことも変わっていくものなんだと実感してます。

徳永 視野が広がるとも言えますよね。中川さんの人生すごろくみたいなのがあったとしたら、どんどん書き換わっていく。進んで進んで、納得しながら1コマずつ進んで行っていますよね。肩書が定まらないのは当たり前かも。
確実に一歩一歩進んでいく、中川さんの原動力って何でしょう? でっかいことも企んでいるけど、ゲームや教材とか、細かいツールも開発し続けているでしょう?

中川 ゲームや教材は、学校現場の先生や、子どもたちを思い浮かべて、こういうのが教室にあるといいなって思うと、作りたくなっちゃう。手を動かすのが好きなので。



徳永 ゼロイチのポジションが楽しいんだよね、きっと。でもでっかい企みに対する気持ちもそこですよね。開発してエンジンかけるところまでが中川さんの仕事っていう気がします。で、変化し続けるから肩書も定まらなくて、名刺何種類あっても足りないという…。

中川 やっぱり話はそこに戻るんですね。肩書…(笑)。

徳永 だって、クラウドボックスが「想いをカタチにする」を企業理念にしてるのは、その作業が好きだから! ですよ?
想い受け止めて、まだ形になってないところを探しながら形にするのが、多分僕らは好きだから。「まだ形になってないけど想いははっきりあるよ」っていうお客さんほど、やりがいを感じます。

中川 そっかそっか。そういう楽しさもありますね。

徳永 ええとね。考えてみました、肩書。
「教育多様化ファシリテーター」「個別最適教育プロペラ―」「それぞれの教育クリエイター」「多様な教育ブースター」「個別最適教育推進家」

中川 プロペラ―って何ですか?

徳永 推進力を与え続ける人。調べてみて一番近かったんだけど。

中川 飛んでっちゃいそうですね…(笑)

徳永 似合ってないことはないかと…。

中川 はははは(笑)。

ーーーありがとうございました。

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