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社員戦隊ホウセキ V 第2部/第36話;悩める産業医
前回
六月二十六日の土曜日の夜、伊禰は新杜家の夕飯に同席していた。
健診の結果が芳しくない社員・葦田考人への対応について相談する為に。
「葦田君は、どうしょうもないわね。体壊そうが早死にしようが、自業自得じゃん」
千秋のそんな冷たい言葉を、伊禰はすぐに否定した。
「それは駄目です。皆さんが健康に仕事をできる環境を創るのが、私の仕事ですので。彼が心や体をすり減らしているなら、何とかしなければいけません」
そんな伊禰の言葉を受けて、千秋は思い出していた。
今から三年前、伊禰が大学病院で研修医をしつつ、週一で新杜宝飾に来ていた時のことを。
伊禰が新杜宝飾に来るようになってから、彼女が当番の日のみ医務室を訪れる社員が増えた。彼らの大多数が詐病で、若くて綺麗な【医者のお姐ちゃん】がお目当てであることは明白だった。
「お姐ちゃんも、ガツんと言いなさい! サボってないで、仕事しろって!」
ある日、千秋は医務室にサボりに来ていた自分の夫=社林寅六部長を一喝し、伊禰にも強く言った。
これに対して当時の伊禰は、こう即答した。
「すみません。ここで話すことが、皆様のストレス軽減になればと考えていたのですが…。確かに、それが怠けに繋がるのは問題ですわね。気を付けます…。ですが、悩ましいです。多くの方は、ストレスの捌け口でお酒に走り、結果的に胃を傷められて…。大学病院には、そのような方が何人も通われています。副社長の仰ることはご尤もだと思います。しかし、怠けと息抜きの境界線を見極めるのは難しいです…」
伊禰の言葉を受け、千秋はその甘さに心底呆れた。
しかし何故だろう?
同時に、この二十代半ばの小娘が、信頼できる気がした。
(この子、チヤホヤされて図に乗ってるクソ女かと思ってたけど、ちょっと違うみたいね。多分、他所の会社じゃあ使われないでしょうけど、兄さんは気に入りそう…)
この日、千秋は伊禰に対する認識を改め、社長である兄の愛作にも話をした。
「今、会社に来て貰っているお医者さんの中で、新杜宝飾に一番相応しいのは若い女の子だと思うんだけど」
この進言を受けて、愛作は伊禰を専属の産業医として採用することを決めた。
以降、伊禰は社長と副社長の期待に応え、本社だけでなく直営店も定期的に回り、今日まで労働環境の把握と改善に尽力し続けているのだった。
という思い出話も程々に、話題は今の問題に戻る。
「葦田は固定観念が強くてな。若い女はこんなのが好きだろうとか、高収入のオッサンはこう思うだろう、みたいなのが。それが作風にも出過ぎてたんだよ。顧客の生の声を聞けば一口に若い女って言ってもいろんな人が居るって実感できるだろうと思って、営業で勉強して貰おうと思ったんだが…。デザインの仕事ができないのは、あいつにとって苦痛なんだろうか?」
愛作は葦田をデザインから営業に異動させた理由を思い返し、それが彼に与えた影響について考えた。それを受けて、デザイン制作部長の寅六も話を膨らませる。
「確かあいつ、芸大出てから一度は広告会社に入って、それから自由なデザインの仕事がしたいって思い直して、中途でウチに入ったんだよな。そう考えるとデザインの仕事をさせてやりたい気もするが、でもどうなんだろうな? もし、あいつの固定観念の強さが直ってないのに、酒に走ってるからって理由で戻すのも違う気がするしな。愛作さんはどう思ってるんだ?」
寅六は愛作に話を振った。愛作は首を傾げ、暫し悩んで唸る。はっきり言って出来の悪い平社員である葦田を、社長が気にするのは異様なのかもしれない。しかし、そこまでするのには理由があった。
「一度採った人材だからな。悪い環境で腐らせるのだけは、絶対にしたくないんだよ。会社のせいであいつが無能扱いされるのは、絶対に駄目だ」
これは愛作の信念、と言うか創業者一族である新杜家の家訓のようなものだった。しかし、これを実行するのは簡単ではない。
「いつか時間作って、葦田と話してみるか。本当に体壊して貰ったら、大変だからな」
本人不在の場でいろいろ話すより、本人と話した方が良い。結局、話はここに行き着いた。愛作のこの判断に、伊禰は「ありがとうございます」と礼を言う。それと同時に彼女は思っていた。
(改めて良い会社ですわね。人を使い走りではなく、ちゃんと一人の人物として見ていらっしゃる。お父様が話されていた、理想のチーム運営を実践されている)
伊禰は父親と話す機会が少なく、父親に関する感情もかなり薄い。それでも、父親が何度かプロ野球チームの監督として語ったリーダーシップ論みたいなものは印象に残っていて、働くようになってからは身に積まされることが多くなった。
父親が語っていたリーダーシップ論みたいなものは、社長である新杜愛作の理念と非常に似ている。こうして、自分と共鳴できる人物に巡り会えたことを、伊禰は心底ありがたいと思っていた。
しかし彼女はそれを語らない。愛作はそれを感知したのだろうか?
「それと祐徳。お前が社員の健康を真剣に考えてるのは確かで、それは誰もが認めてるんだが…何だろうな? 伝わり切ってないかもしれないな。お前が心を開かないと、葦田も心を開かない気がするんだ」
話が落ち着いたと思いきや、愛作はそう口走った。思わぬ発言に、伊禰はかなり驚いていた。同時に、少し不服にも思っていた。
「心を開かないとって…。私、心を閉ざしてなんかいませんが。申し上げるべきことは、ちゃんと誰でも正直に申し上げているつもりですし…」
伊禰はすぐに、そう言い返した。
無論、この言葉に偽りは無い。伊禰は心を閉ざしているどころか、むしろ社交的な部類に入る人物だ。なのだが、伊禰は自分の信条や思想を語らないのも事実。
ここが【心を開いていない】と愛作が感じている部分なのだが、なかなか触れるのが難しいところだった。他の者たちも、適切な言葉を見つけられない。
「確かに…言うべきことは言ってるよな。気を悪くしたなら申し訳ない。勿論、お前は産業医として信頼できる人材だ。これからも皆のことを頼む」
少し間を開けて、愛作がそう言ってこの話題を閉めた。その後、話題は雑談に移行し、この場は笑いに包まれた。
伊禰と社林部夫妻は帰宅した。新杜夫妻は食器の片付けなどを分担して行っていたが、その時にふと花枝が言った。
「貴方さっき、お姐ちゃんに『心を開かないと』って言ったけど、難しいかもよ。あの子もあの子で、苦労してるでしょうから」
妻が何を言いたいのか解らず、愛作は一時的に動きを止めた。そんな夫に、花枝は補足するように語る。
「【江戸大の女】っていう幻想で勝手に人物像を想像されて、自分自身を見て貰えない。そんなのじゃないってアピールしようとしても、相手は想像を覆さなくて、話も聞いて貰えない。私もそういう経験あるからさ…。しかもあの子、有名人の娘さんでもあるじゃない。思い込みで想像されたこと、かなり多いんだろうなって思うの」
花枝も江戸大学の出身だった。学部は伊禰と違い文学部だが。彼女は自分の経験に鑑みて、伊禰の背景事情を覚ろうとしていた。
愛作はこの話を聞いて何か思い出したのか、何度も深く頷いていた。
「確かにそうかもな。自分より優れた相手を目の前にした時、妬みが先行して歪んだ人物像を勝手に創る奴は居るからな。祐徳が自分の信念や理想を語ろうとしないのは、そういう経験をしてきたからかもしれないな」
愛作の相槌は的確だったらしく、花枝は「そう」とすかさず返した。
「同じ江戸大卒でも、千秋ちゃんみたいなタイプなら良いのよ。ああいう気の強い子は、怖がって誰も手を出そうとしないから。だから、代わりにお姐ちゃんみたいな子がやられるのよ。言い返さないから、サンドバックにされるの」
江戸大学卒で今は宝飾会社の社長夫人という立場の花枝だが、過去に何かしら苛烈な経験をしたのか? そんなことを思わせる発言ばかりしている。それこそ、実は千秋も江戸大学卒だという情報の印象が薄れる程度には。
しかし花枝は、決して過去を怨んでばかりではなかった。
「私の場合は、最初の会社をさっさと辞めて、貴方の会社に移ったから良かったけど。貴方に会わなかったら、どんだけ世の中を怨んでたことか…。あの子も、そういう出会いがあると変わるのかもしれないけどね…」
ここで方向転換し、夫を持ち上げる花枝。作業が一区切りついたこともあり、愛作に歩み寄って軽く腹を肘で突いた。愛作は照れているのか鼻の下を伸ばしつつも、真面目に伊禰の話を続けた。
「そうだよな…。と言うか、もうあいつは良い仲間には出会ってる筈なんだけどな…。あと一歩が踏み出せないんだよな…」
愛作は時雨たちの顔を思い浮かべ、溜息を言葉に絡めながら語った。
翌日の日曜日は定例の社員戦隊の訓練があったが、前日にスケイリーと激闘を繰り広げたばかりなので、午前中のみの軽いメニューとなった。というのも、伊禰が産業医の立場からこのような提案をしたからだ。
「頑張りまくれば良いという訳ではありませんからね。休んで回復に努めるのも仕事の一つです。正しく認識してください」
勿論、この提案が最初から受け入れられた訳ではない。和都は反論した。しかし隊長の|時雨が伊禰の提案に賛同し、十縷と|光里も加勢したこともあって、和都は折れた。この展開に、伊禰は胸を撫で下ろしていた。
(ワット君は理屈屋ですから、理解できれば素直に聞いてくださるのですわよね)
しかし、伊禰の心の表情は完全に晴れてはいなかった。
(パスカル君も、そうなってくださるとありがたいのですが…)
パスカル君こと葦田が生活態度を改めないという現状が、どうしても伊禰を不安にさせる。どうすれば、彼は納得するのか? 今の伊禰は専らこのことにしか関心が無かった。
次回へ続く!
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