前回
六月二十六日の土曜日。
和都と最音子のデートは、予定通りに行われた。場所は武家屋敷の波間離宮。海水を引き込んだ池がある、独特な庭園を持つ屋敷である。
二人は屋敷の庭園の中に進入した。ここで会話を切り出したのは最音子だった。
「ここって、海水を引き込んだ池が有名なんですよね? 実は今週、小曽化浄の【転校生の名は】を読んで、予習してきたんですよ。ほら、あの漫画の中で、主人公の不愛想な男の子と、転校生の女の子がデートしてましたから」
和都は新杜宝飾の社員だから小曽化浄の作品に関する知識は充分にあるという前提で、最音子は喋り始めた。しかし、これに対する和都の反応は微妙だった。
「ああ、あの漫画ですか? あれ、あんまり好きじゃないんですよね。って言うか、小曽化先生の作品、ジュエルメンは確かに名作だと思うんですけど、他は大衆ウケを狙った軽いのも多くて…。これ、会社じゃ言いにくいんですけどね」
ここに来て、ようやく和都は長めの科白を口にした。内容こそ不愛想そのものだったが、和都の口を割れたこと、しかも本心だろう見解が出たことに、最音子は相当の手応えを感じた。そして、それは明確に表情にも出た。
「そうなんですね! なんか光里は、『小曽化先生の作品は全部良い』とか言ってるから、てっきり新杜の社員さんは全員そうなのかと思ってましたけど…。やっぱり、人によって違うんですね!」
素直な笑顔で、そう言った最音子。和都はその顔を数秒間見ると、また目を逸らした。しかし最音子は動じず、満面の笑みを浮かべたまま。
奇妙な構図で、二人は庭園の中を突き進んだ。庭園の一角に設けられたある花壇に差し掛かった時、最音子はあることに気付いた。
「あれ? これって、コスモスですよね? どうしてこんな季節に咲いてるの? 品種改良でもしたヤツなのかな? ワットさんはご存じですか?」
六月なのに秋桜が咲いていたのだ。最音子は純粋な疑問を抱き、この話題を和都に振ってみた。なお、最音子はごく自然に【ワットさん】などと呼んだのだが、和都の反応は薄い。それどころか、話も余り膨らまなかった。
「これ、コスモスなんですね。すいません。俺、花とか詳しくなくて」
ここで会話が途切れそうなことしか言わない和都。それでも今の最音子は饒舌になっていて、会話を途切れさせなかった。
「あれ? 私、てっきりお花とか詳しいのかなって思ってたんですけど…。意外です。このピアスをデザインされたの、ワットさんなんですよね?」
と、自分の耳に付けたピアスを指しながら、最音子はそう言った。和都は「そうですけど」と返しただけだったが、この素っ気ない態度にも最音子は笑顔で答えた。
「このピアスのモデルになった花を訊いてきてって、光里に言われてたんですけど…。もしかして、適当にデザインしたんですか?」
クスクス笑いながら、最音子はそう言った。和都は、「そうです」と簡素に答えた。最音子は「そうなんだー」と、楽しそうな声で言った。
その後、どういう流れか最音子は「コスモスは漢字で秋桜と書く」と、和都に教えた。和都はこれで六月にコスモスが咲いていることを最音子が不思議がった理由を理解したが、相変わらず反応は薄かった。
その時に和都は別のことを考えていたからだ。
(あの青い花、何ていう花なのか、未だに判らないんだよな。それ以前に、このピアスのデザインは俺のモンじゃない…。俺は本当に無能だ…)
ピアスのモデルになった花は無いという話には、いろいろと嘘があった。しかし和都は口を噤んでいた。ところで彼は、自分がデザインしたのではないと心の中で語っていたが、それはどういう意味なのか? これも和都は語らなかった。
(こんな無能なのに、よくもまぁ自分より有能な奴に先輩面してるよな。俺は。だから駄目なんだよ。高校の時もそうだった。春日君は高校時代の俺、そのものだ。無能なクセに、他人には過大な要求をする。だから俺は駄目なんだ)
デート中にも拘らず、【自分は無能】という和都の思考は、変な方向に逸れ始めていた。
これはいつか伊禰に言われたこと。思えばこれだけではない。和都は高校二年の時、所属した美術部の顧問からも「後輩に厳し過ぎる」と指摘されたことがあった。
(美術部に入ったからには、絵が上手くなるのを目指すのが当然だろう。だけど、あいつらには辛い要求だったのかもな)
和都の一つ下の後輩たちは、美術室に来ても喋っているだけで、何も描かずに帰るということが何度かあった。和都は先輩としてそういう態度を指摘していた。それ自体は間違っていない筈だが、何故だろう? 和都の方が責められることが何度かあった。
その象徴たる事件は今から九年前、和都が高校二年生の時だった。和都にとって、これは余り回想したくない記憶であると同時に、忘れられない出会いの記憶でもあった。
以後、和都は彼女とは会っていない。名前も聞かなかった。青い花の絵を描いたスケッチブックと不思議な記憶を和都に残して、彼女は去っていった。
次回へ続く!
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