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言葉の力 『奈々子に』 吉野 弘

 若い時からいろんな言葉の力に支えられて生きてきた。その一つに吉野弘の詩がある。この詩に出会った時は驚いた。世の中には、こんな風に思ってくれる親もいるのだ、と。

 だから、私は時々「奈々子」になって「親からの言葉」を受け取ることにしている。息子が生まれてからは、息子が私の「奈々子」になった。

 みんな、それぞれ「奈々子」だよ。


奈々子に       吉野  弘

赤い林檎の頬をして
眠っている奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた

苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは。
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

                        ー 詩集『消息』1957年刊 ー

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