映画レビュー『3-4x10月』"路線"についての論考。
北野武第二回監督作品「3-4x10月」(1990年公開) に関する論考、というかそれを含めて北野映画の傾向として見えてくる、ひとつの作風のカテゴライズに関する論考です。
「3-4x10月」(1990) 、「みんな〜やってるか!」(1995) 、「アキレスと亀」(2008) の3作品を、私は北野映画のひとつのカテゴリーだというように思っていまして、その論考をしたいと思います。ここに共通のするのは【主人公が底なしのバカ】というテーマ性です。
この作品的価値にはなかな気付きづらかったのですが、北野武監督はこういった底なしのバカを描くのが好きで、いわば"バカの追求"とでもいうような作風は、観ていて楽しいです。ドタバタコメディという既存のジャンルもありますが、北野武監督のこの方向性は「単にバカを観察する」という点が独創的で、劇映画表現におけるひとつの極限性として、特筆したくなるものがあります。
今まで数多く作られてきた北野武作品を振り返ってみると、上記3作品のような連関性が見えてきました。これを北野作品の中のひとつのカテゴリだというように認識すると色々感じ入るものがあります。
まず監督第2作目となる「3-4x10月」については、2作目にしてなぜこのような作品を発案したのかよくわからず、今となっては驚くべきものがあります。評価の高い4作目の「ソナチネ」は、さかのぼってこの2作目を照射するかのような役割も担っており、「ソナチネ」が入り口で「3-4x10月」が理解できるといったような感が私にはありました。しかしそれでも、コンセプトが明瞭なソナチネに比べて、3-4x10月は全く抽象的なフリースタイルの作品だというような程度に受け止めていましたが、よくよく見てみるとこの作品にも確固たる構造が仕掛けられている事に思い至るようになりました。それは冒頭のガソリンスタンドでのヤクザとのトラブルのシーンです。ここではガソリンスタンドの店主、主人公のバイト店員、ヤクザの客という3者が、それぞれの立場と言い分を持っており、何らかの現代的な社会構成の縮図を垣間見る事が出来るようにも思えます。その衝突を起爆剤とするように弾き出された主人公の若者は、その後とんでもない展開にまみえていく事になります。
この社会構成の縮図を思わせる3者のやり取り、ありがちな風景は、よく出来たシークエンスだと思いますが、そこでは、何らかの倫理的由縁が描かれているわけで、だからこそまたそのどこかに落とし所となる理知的な帰結点も見出せうるはずですが(警察を呼ぶとか訴訟を起こすとか)、主人公の若者は自分にとって損なのか得なのか、また誰の理に叶っているのかもよくわからない、近代的知性不在の領域へ踏み出して行きます。この冒頭シーンが "物語の仕掛け部分"となって現代社会のありがちな風景として確立していればいるほど、その後の主人公の道程の意味不明さは際立っていきます。北野監督は本作を、その場の即興演出で順撮りしていったとの事です。
なお、本作は作劇自体が擬似的な夢オチ(主人公の妄想)で括られていて、それが何を意味するのかいまだによくわかりませんが、本作が無機質なバイオレンス描写の積み重ねで、救いがないような肌触りを持っている作風であるにも関わらず、この主人公がもしその経験を後日談として他人に語ったとすれば、それは潜在的に【すべらない話】のような笑いに転化するのではないかというようにも想像されます。これが全て主人公の妄想だったというのは、つまり主人公は笑いのネタを考えていたという事になるのかも知れません。こんなに救いのないような肌触りの作風であるにも関わらず、今この映画を思い出すと、私は思い出し笑いが起こります。または本作は、夢オチという点で「オズの魔法使」(1939) との同列性があると言えるかも知れません。
またその次々作である「ソナチネ」と比較すると、本作の方には一種異様な独特の自由度が感じられもします。北野映画作品には、うまく理解してもらえなかった自己の過去作を、新作を作る事で再発見してもらうというようなスタンスが時々垣間見えます。作り手と受け手の間でこのようなラグが起こるのは、簡単に考えれば作り手の表現不足とか、受け手の無理解などと言えるのかも知れませんが、北野映画においては今やそれ自体が「芸」のようになっている感もあります。
よく映画では、有名な過去の作品を監督自身が再編集(ディレクターズカット)してより納得いくものとし再公開するという、ある意味えげつないビジネスモデルがありますが、北野映画では、作品を作り続ける行為自体にそれと似たような機微を含有しているという事が言えるかも知れません。
14作目の「アキレスと亀(2008)」もまた、バカを主人公とした作品でした。ここにおいて私としては、「3-4x10月」や「みんな〜やってるか!」と共有されうる【底なしのバカを描く作風】という北野映画の1カテゴリのようなものがある事を認識するに至った作品でした。しかも「アキレスと亀」においては、物語が進んでいくための推進剤として、もはや今までのような暴力描写すら必要としていません。売れない絵描きである主人公は、暴力の代わりに創作というバカをやり続けています。ここにおいて北野映画における【底なしのバカの追求】は、洗練の度合いも増しているというように受け止められるのです。
北野映画の代表作と言えば「ソナチネ」とか、娯楽作「アウトレイジ3部作」だとかいうのが定評ですが、これらとはまた一線を画した別の所に、このようなスタイルの確立があるという事が言えると思います。そしてそれは第2作目から始まっていると考えると、「3-4x10月」という作品には驚異的なものがあったのだという思いがします。お笑いタレントから映画に進出した北野武氏は、2作目において映画向けに新規のネタを発見し、つかみ取っていたというようにも受け止められます。
洗練の度を増している「アキレスと亀」によって、私は過去作である「みんな〜やってるか!(1995)」の作品的価値を再認識するに至りました。北野武氏における【底なしのバカの追求】において、これら3作品それぞれは、それぞれに他にはない特異性を備えています。
「3-4x10月」は笑いの対極にある作風を身に纏っていて、また理知的なギミックがある事。「みんな〜やってるか!」は逆にお笑い表現そのもののストレートで、作り手もバカになっている事。「アキレスと亀」は暴力描写を廃して、バカの追求が様式美にまで達している事です。
代表作として評価の高い「ソナチネ」において、一旦全てを出し尽くしてしまったかに見えた北野武氏の映画表現は、次作の「みんな〜やってるか!」によって、「ソナチネ」のような至極シリアスな作風では達成し得ない、別の表現がまだその内にある事を即座に表明していたという事が言えると思います。
今でこそ「ソナチネ」は北野武の最高傑作などと評されるようになっていますが、公開された当時は「どう受け止めればいいのかよくわからない」という扱いを受けた作品でした。「ヤクザ映画➕アート表現」という価値観が存在していなかったためです。そこにおいて北野武が表現したものは、自己の純血的な映画論であり、また同時に既存の表現への敵対的な意思表示でもありましたから、この時点では創作者である北野武もが、自身のプラトニックゆえに映画作家生命の行き場をなくす危険性もはらんでいました。「ソナチネ」のような作品を発表して、さらにこの先何をする事もないだろうと思わせるものがあったわけです。しかし実際には北野武は、翌年には「みんな〜やってるか!」を制作しています。これは、打ち止めを彷彿とさせる「ソナチネ」にもカウンターが出来うるという事の、北野武自身による意思表示であり、映画表現における「持続可能性と断絶性」を考察する上で「みんな〜やってるか!」という作品にはそのような意味合いでの存在価値を見出す事もできます。「ソナチネ」の外に、北野武の別の映画分野がありうるという事がここからわかるわけです。「ソナチネ」で衝撃を受けた観客に対して、衝撃を受けて損したと思わせるような、端的な「遷移・展開」が「みんな〜やってるか!」にある。私が本項で述べているような「北野武バカ3部作」に着眼するようになったのも、そこに「ソナチネ」へのカウンターの意味合いが垣間見えるからです。
北野武の映画を語る上で「ソナチネのような映画はもう作れないのか」といった意見を目にする事もありますが、「ソナチネの後に作られたみんな〜やってるか!という意味合いでのみんな〜やってるか!」について、北野武にインタビューしてみたくもあります。
映画表現において、その映画史上に残るようなバカを描くという行為が、商業的な価値を持つのか、あるいは批評的にも着眼されうるのか、まだそれは概念として帰結すらしておらず、前衛の域を出ていないというようにも思えます。
なお、上述した「3-4x10月」の物語冒頭の"仕掛け部分"について、主人公、ヤクザ、ガソリンスタンドの店主のうち、私が1番悪いと思うのは、ガソリンスタンドの店主です。
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