『貴婦人Aの蘇生』月1読書感想文 2月
『貴婦人Aの蘇生』新装版 2023年朝日文庫
主人公の『わたし』は経済的な理由から、夫に先立たれ孤独となったユーリ伯母さんと伯父が残した古びた洋館での共同生活を始める。
伯母さんは亡き伯父がある日いきなり連れて来た年上のロシア人の女性、伯父と結婚した時からかなり歳を重ねており、ロシアから亡命して来たと言う以外には詳しい素性は謎のままの人物。
小川洋子の小説は、何処の土地で起きている話なのかハッキリとしないものが多い。
今回も多分、日本?でも、ヨーロッパの古くさいちょっと湿った空気も漂う。話の展開のおおよそ8割以上を占める、2人が住む洋館による影響が大きいのだろう。
ちょっと湿った空気感で、古い廊下の先や階段の下に吹き溜まる暗闇が、何とも言えない気持ちの悪さを感じさせる。そんなイメージだ。
わたしの勝手な印象かもしれないが、作者が描く世界の登場人物たちは、不思議なガラクタ(当人達には重要な物なのだろうが)をかき集め溢れんばかりの混沌とした環境に居る人が多い。
そのガラクタたちが、また不穏な雰囲気を醸し出す。わたしたちが普通に生活している普通な(?)世界とは一線を画した静かで美しく不気味さが滲む世界。誰の心の奥底にもあるであろう、小さな狂気が隠れる事なく漂う世界だ。
もちろん、そのガラクタたちの主人である人(今回は伯母)は、さらに不思議で普通に考えれば不気味な存在な筈なのだが、皆、独自の価値観や信念を変えずに生きていて、それが元で世の中からかなり外れた存在であろうが、全く気にしない。
寧ろ世の中の方が、誇り高く生きる彼女達に近づいて来るようになる。
今回も物語の重要な意味を持つ、生前伯父が集めた様々な動物の剥製が、古びた屋敷に溢れんばかりに押し込まれている。
死んだ動物達に囲まれ、伯母はせっせとその剥製達に自分のイニシャルである『A』の文字を刺繍し続ける。
古びた洋館は、まるで棺桶のようだ。
伯父と伯母の過ぎ去った日々の思い出、死んだ動物達の剥製、そして年寄りという言葉よりさらに年老いた伯母。生命を感じられない物が詰め込まれた巨大な棺桶。
ここで伯母の『A』の刺繍。
名前はユーリの筈なのに?となるが、本人の口から本当の名前は『アナスタシア』だともたらされる。
ん?アナスタシア?ロシアから亡命してきた?
そう、ロマノフ王朝最後の生き残りの皇女アナスタシアなのではないかと、話は進んでいく。
因みに、アナスタシアはロシア語で『蘇生』を意味するとのこと。
彼女は死んだ動物達に、蘇生の頭文字を刻み続ける。夫との思い出に耽りながら。
当初、人から興味も敬意も向けられない枯れた容貌の小動物のような老人である伯母は、もしかしたら本当にアナスタシアでは?という疑問が効果を出し、徐々に彼女自身の威厳と存在感に周りが気がつき始める。
そのきっかけとなったのが、剥製愛好家で伯父の遺した剥製目当てに屋敷を尋ねて来た、オハラと名乗る脂ぎった押しの強い中年男だ。
不確実な存在の伯母と対照的に、コッチの世界の象徴のようなオハラの存在。
厚かましく打算的で狡賢い人物なのだが、伯母が皇女アナスタシアなのではないかと分かってからは、伯母自身に心頭して行く様が面白い。
明らかに不可解な世界に、コチラ側の世界が飲み込まれていく様な印象を受けた。
以前、著者のインタビューを読んだ時、『普通の若者同士の普通の恋愛とか痴話喧嘩は興味がない』とあったのを覚えている。(個人的にはかなり理解出来る)
ハンデを追っている人、年の差が相当離れている人たち(老人と少女とか)、小川洋子の物語に出てくる恋人たちは歪で優しく静謐に、それでいて時に驚くほど愚かに残酷になるパターンもある。
今回もそんな感じの恋人が登場する。
主人公の恋人の『ニコ』だ。
理性的で優しい強迫神経症のニコは、ドアというドアをストレートに入る事が出来ず、彼の中の決まった儀式を行う必要性がある。テラスを右に3回まわって、ドア枠を端を押さえて…の様な感じだ。しかし儀式を行ったからと言って、ドアを潜れるとは限らない。どうしてもダメで、外で一晩を過ごすことすらある。
現実問題としては、本人も周りも大変なのだろうが、物語の中の登場人物達はそれすら魅了の1つとして存在している。
そして大抵はそんな強い個性を持っている人物たちは、強くて優しく描かれている。
最後は事故による伯母の死で、その何とも奇妙な世界は幕を閉じる。結局、伯母の正体は謎のまま。
何が真実で何が虚飾なのかはっきりとは分からず、ただただ静かで美しい世界だけが残り、秘密は秘密のまま、そっと箱に閉じる様に物語が終わった。
信じている人も、僅かな疑問を持つ人も。
YESでもNOでも、全てが明らかにならない方が、断然美しい。