どこまでが「嘘」でどこからが「愛」なのか-嘘つきたちの作法-
「美味しい?」
「うん、すっごく」
カフェで彼女の手作りスイーツを前に、また上手な嘘をつく。まずい。でも「まずい」なんて言えない。だって、彼女の目が輝いてる。期待と不安が混ざった表情で、私の反応を待ってる。この表情を曇らせないために、人は嘘をつく生き物になる。
商品開発部の後輩が新しい企画を持ってきた時も同じ顔してた。確実に通らない企画書。でも「面白いね」って言った。その方が、次につながる。その方が、彼の成長に繋がる。こういう嘘を、大人は「配慮」って呼ぶ。
嘘って、案外高度な技術なんだ。声の調子、表情の作り方、言葉の選び方。「すごくいい」は大げさすぎるし、「まあまあ」は明らかな罵倒。この微妙な匙加減が、人間関係の調味料になる。
実家の母との電話。
「元気にしてる?」
「うん、すごく順調だよ」
冷蔵庫には賞味期限切れの豆腐。財布の中は千円札一枚。
でも「辛い」なんて言えない。だって母が心配する。心配させたくないから、人は嘘をつく生き物になる。
結局、私たちは嘘つきになることで、誰かの笑顔を守ってる。
それとも、自分の優しさという幻想を守ってるだけなのか。
コーヒーを一口飲む。
やけに苦い。
でも、もう「おいしい」と言ってしまった手前、
この苦さも黙って飲み干すしかない。
これも、嘘つきたちの作法。
苦いコーヒーと、甘い嘘と。
建前という名の愛
「気分、大丈夫?」
「うん、全然」
電車の中、小さな嘔吐感を隠しながら答える。隣の同僚の心配そうな目が、余計に気を遣わせる。満員電車で具合悪くなるなんて、社会人失格みたいじゃない。という建前が、本音を押し殺す。
面白いよね。日本人って「察する」という特殊能力を持ってる。「ちょっと」は「かなり」を意味し、「大丈夫です」は「助けて」のサインになる。この謎の暗号解読能力。でも時々、誰かが文字通りの意味で言葉を使うと、途端にシステムがバグる。
この前、部長が「無理しないでね」って言ってきた。建前だって分かってる。でも、その建前すら投げかけてくれることに、妙な安心感があった。優しさって、時々嘘の形を取るんだ。
飲み会の後、「まだ飲める?」って訊かれて。
「全然平気!」
明らかに限界なのに。
でも「もう無理」とは言えない。
この「言えない」が、大人の作法。
新入社員の子が「本当に大丈夫です」って言い切った時、周りが凍りついた。そうか、建前という嘘の使い方も、先輩から後輩へと受け継がれる技術なんだ。経験と共に磨かれる、この歪んだ コミュニケーション能力。
会議室の空気に気圧されて、
「はい、分かりました」と言う。
分かってないのに。
でも、この「分かりました」は、
「頑張って理解しようとします」という意味の暗号。
結局、私たちは建前という名の愛で、
お互いの本音を優しく包み込んでいる。
廊下ですれ違う同僚が「お疲れさま」と声をかける。
返事をする前に、一瞬だけ考える。
今日は、どんな嘘を織り交ぜた
「お疲れさま」を返そうか。
愛という名の欺瞞
実家からの着信を無視して3日目。
母からのLINE。「具合でも悪いの?」
「ごめん、すっごく忙しくて」って返信。
この「忙しい」って言葉、便利だ。心配させないための万能調味料。
先週末、彼氏の浮気に気づいた。でも「信じてる」って言った。変だよね。気づいてることに気づかないフリして、信じてないのに信じてるフリして。この二重、三重の嘘。でも、これが崩れた時、私たちは何を失うんだろう。
面白いよね。「心配させたくない」って言葉の主語って、本当は「私が心配な思いをしたくない」なのかもしれない。病気の父に「大丈夫だよ」って言い続けた母も、きっと自分を守るための嘘をついてた。
昨日、親友が新しい彼氏を紹介してきた。明らかにやばそうな雰囲気なのに、「素敵な人だね」って言った。嘘つくの得意になったな、私。でも、これって本当に優しさなのかな。ただの無責任じゃないのかな。
「隠し事は良くないよ」
子供の頃、よく言われた言葉。
なのに大人になると、
隠すことが愛情表現になる。
この変化を、誰が教えてくれたんだろう。
スーパーのレジで店員が倒れそうになってた。
「大丈夫ですか?」
「はい、申し訳ありません」
お互い、嘘だって知ってる。
でも、その嘘で店は回ってる。
机の上の写真立て。
笑顔の家族。
撮影の直前、大喧嘩してたっけ。
でも、写真の中じゃみんな幸せそう。
この嘘も、きっと愛の一種なんだ。
そう思わないと、
生きていけない時がある。
正直という名の暴力
「本当のこと、言ってくれればいいのに」
後輩がそう言った時、少し笑ってしまった。本当のことを言えば、君の企画はダメだし、その服装はみすぼらしいし、営業トークは下手くそだ。でも、それを全部言ったら、関係は終わる。生きる意欲は削がれる。
正直者が損をする理由って、そこにある。人間関係って、適度な嘘で潤滑油を差さないと、すぐにギシギシいい出す。全ての歯車が剥き出しのまま噛み合おうとすると、どこかが必ず折れる。
「察しない人は困るよね」
同僚がよく言う言葉。
でも、察することを強要する暴力性に気づいてる?
空気を読めという脅迫に気づいてる?
正直に言えば、君の方が怖い。
昨日、彼女が「正直に言って」と迫ってきた。怖かった。正直に言えば、君のわがままに疲れてる。でも、それを口にした瞬間、関係は終わる。だから「なんでもない」と言った。この嘘が、関係を支えてる。
電車で隣に座ったサラリーマン。
明らかに酔ってる。明らかに臭い。
でも、みんな知らないフリ。
この集団的な嘘が、
トラブルを防いでいる。
正直に生きろって、
誰が言い出したんだろう。
嘘をつくなって、
誰が決めたんだろう。
駅前の広告。
「正直な気持ちを伝えよう」
その横で誰かが、
優しい嘘をついている。
この街は、
正直と嘘のモザイクで出来ている。
そのどちらもが、
私たちには必要なんだ。
嘘つきたちの日常
夜のコンビニで、店員が「いらっしゃいませ」と言う。疲れた声。でも、笑顔を作ってる。私も「ありがとうございます」と返す。やけに丁寧な返事。この見知らぬ二人の、空々しいやり取り。でも、この嘘が二人を守ってる。
帰り道、元カノとすれ違った。お互い、見なかったフリ。LINEの返事もしてないフリ。インスタのストーリーも見てないフリ。この「フリ」という名の共同作業。嘘って、時々二人で作り上げる芝居なんだ。
家に帰ると、母からの着信が残ってた。明日は正直に電話しよう。いや、やっぱり「忙しかった」って言おう。この葛藤も、愛情の形なのかな。
結局、私たちは嘘つきだ。
でも、その嘘が誰かを救ってる。
その嘘が関係を繋いでる。
その嘘で世界は回ってる。
スーパーのレジで、財布から小銭を探しながら考える。明日も誰かの嘘を信じて、誰かに嘘をついて、そうやって一日が終わる。それが残酷なのか、優しいのか。もう、分からなくなってきた。
レシートの裏に、店員の手書きの「ありがとう」。
この文字に、どれくらいの本音と建前が混ざってるんだろう。
でも、それを考えること自体が、
野暮なのかもしれない。
夜の街を歩きながら、誰かが誰かに嘘をついている。
「大丈夫だよ」
「気にしてないよ」
「幸せだよ」
この嘘が、また誰かの明日を作っていく。
嘘つきたちの、優しい日常。