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【書評】フラナリー・オコナー『田舎の善人』

僕が好む小説のジャンルはSFで、理由は簡単。どうせ読むのだったら、タイムマシンとか宇宙人が出てきた方が絶対楽しいに決まっているから。映画だってどんなに内容が酷かろうが、カッコいい宇宙船や恐竜を見れれば「楽しかったあ♡」と満足できる程度にお馬鹿さんです。
ただし最近は好みの幅も少し広がってきたようで、今回感想を書こうと思っているフラナリー・オコナーやサリンジャーみたいな、団地系小説も結構楽しめるようになってきた。そこで今回は短編『田舎の善人』の感想を書こうと思います。ネタバレあり。

あらすじ
信心の強い母親と二人で暮らす32歳の娘ハルガ。彼女は幼い頃に猟銃の事故で片足を失って以来、義足の生活をしている。博士号を持つ無神論者であり、辛辣で孤独な女性だ。そこに訪ねてきた善良な田舎者風の聖書のセールスマンで、男はハルガを週末のデートに誘い出す。しかし敬虔なクリスチャンと思われた男は二人きりの納屋で豹変し、ハルガをはずかしめた。最後には義足をカバンにしまい、その場から立ち去ってしまう。

1、ミセス・ホープウェルとハルガ
「これが人生なのよ!」
母親のミセス・ホープウェルの口癖がいちいち面白い。何かにつけて「人はそれぞれなのよ!」「それが人生なのよ!」と語尾につけるたびに笑ってしまう。上のコピペしたあらすじには“信心の強い”と書かれてあるが、僕はそのようには感じなかった。ある程度には信じているが、あくまである程度。半分は信じているけど、半分は信じていない。なぜなら大人な彼女の半分は”あきらめ“で出来ているのだ。例えば家政婦(?)のフリーマンに対しても、何でも首を突っ込みたがるクセだったり、たびたび話を聞かないモードになる悪い部分には目をつぶって、彼女を”田舎の善人“だと評している。全てが善い人間なんていない。だから人の善い部分だけを見ていれば、あとは許せる。それが彼女のスタンスだ。先に言った口癖は、悪しき部分に目をつぶるための言い訳のようなもの。人が思い通りならなくても「人はそれぞれなのよ!」「それが人生なのよ!」と言っておけば、悪い部分は我慢して肯定できるのだ。作中でホープウェルは忍耐の人だと評されている。僕は彼女を大人で立派だと思うし、全然悪いようには感じなかった。“クズのような人間相手に、これまでたっぷりと経験を詰んできた”と書かれてあるのをみても、どうして彼女がそういう人間になったのか、その苦労を察する。わりと共感する人も多いんじゃないだろうか。しかし、ハルガはそんな母親は”浅い“と思っていた。

ホープウェルがさりげなく「ほほえみは誰も傷つけないものよ」と言うと、ハルガは激昂する。
(この台詞。いかにもホープウェルっていう感じで個人的にかなりツボ)
「女よ!あんたは自分の内面を見たことある?内面を見て、自分とは違う存在を見たことがあるの?」と突然声を荒げるハルガ。
ハルガから見れば、母親はうわべだけで物事に納得している浅い人間。自分の芯をもたず、綺麗事だけを並べてヨシとして、真剣に悩んだり、物事を深く考えずに生きている。ハルガにとっての田舎の善人は、浅はかな幸福で満足した気になっている愚かな民衆のことだ。まさに母親。娘の激昂にわけがわからず、ただオロオロしているホープウェルが可哀想だけど面白い。…ちょっと胸がキリキリするね。
ハルガは無神論者だが、ある意味では誰よりも信仰心がある。ただその対象は神ではなく真実だった。彼女は哲学を専攻していて知や真実を信じているから、宗教やら上辺だけの道徳をとことん軽蔑しているのだ。“私は幻想をもたない。私はその向こうに無を見通す人間なの”という台詞にもある通り、科学的な真実だけを“信仰”している。彼女から見れば、母親や身の回りの人間はさぞ無知に見えたことだろう。トゲのある言い方をすれば、自分だけが分かっていて賢いと思っているタイプだ。

信仰心のあるホープウェルと、無神論者のハルガ。しかし本当の夢想家は、現実と折り合いをつけているホープウェルではなく、真実を信仰しているハルガの方だった。ハルガは母親が付けたジョイという可愛らしい名前を捨てて、自らハルガと名乗る。ハルガという名前にアイデンティティを感じている彼女は、他人からハルガと呼ばれるのを嫌がっていた。名前だけではない。義足も同じく、彼女だけが持つアイデンティティの象徴なのだ。

2、義足と聖書
宗教を軽蔑しているハルガが、なぜ聖書売りのポインターに惚れたのか。それは中途半端な母親と違って、ポインターが100%神を信仰しているからだ。ポインターは理想を追い求めていて、神を信じて聖書を売ることが使命だと本気で思っている(ように見えた)。ハルガは信仰の対象こそ違ったが、ポインターにある種のシンパシーを感じてしまう。しかも互いに心臓の病気を患っていて寿命が決まっていると知り、さらにポインターに好意を持ってしまうのだった(ただし「私も病気なの」と言ったハルガにポインターは何も反応しないところを見ると、これも嘘だった可能性あり)。
ハルガのアイデンティティの象徴は義足だが、ポインターは聖書だ。どこへでも聖書を持ち歩くポインターをハルガは笑うが、軽蔑こそしない。上辺だけの母親とは違い、芯のあるポインター。しかしこのポインターこそ、上辺すらない完全なニヒリストだったのだ。聖書の中身は実はウイスキーと卑猥なイラストのトランプ、そしてドラッグ。
ホープウェルは現実と折り合いをつけた中途半端な田舎の善人だったのに対し、ポインターは一切何も信じていない完全な虚無主義者。シンパシーを感じていたはずのポインターは、実は母親をも凌駕する現実のみに生きる男だった。そんな男がハルガのアイデンティティである義足を奪っていく。
小説の最後、ハルガの義足を鞄に入れて牧草地をかけてゆくポインターを、偶然ホープウェルと家政婦が目にする。ポインターを眺めながら、
「ほんとに単純な人。でもね、私たちみんながあんなに単純だったら、世界はきっともっと良くなるんだわ」とホープウェル。
家政婦は腐ったタマネギに注意を向けながら、
「人によってはそれほど単純ではいられませんけどね。あたしなら、単純じゃいられませんね」

この“単純”が何を指すのか。人によって解釈が分かれるかもしれないけれど、僕は本音と建前のグラデーションの中で生きるホープウェルと家政婦に対して、思い切り現実に振り切って生きるポインター(もしくは夢想家のハルガ)を単純と表現したんじゃないかと思っている。ハルガが軽蔑した“上辺だけ”の中途半端な田舎の生き方は、残念ながらそれなりに真っ当な生きる手段だったのかもしれない。比較的小規模なコミュニティの中、社会性を保って生きていくにはどこかで折り合いをつけながら、離れすぎず、近寄りすぎず。実際、中途半端ではない、芯のあるハルガはアイデンティティを奪われて敗北した。「単純じゃいられない」という表現が、その切実さを物語っているようだ。
考えすぎかもしれないけれど、最後にホープウェルが言った「私たちがみんな単純だったら、世界はもっと良くなるのに」という言葉は、ホープウェルも体裁ばかり田舎の善人にくたびれていて、本当はハルガのような生き方を肯定したいと願っているように感じた。けれど“単純じゃいられない”。
グラデーションの中で生きるうちに、ホープウェルは自分でも本音と建前の区別がつかなくなり、やがてグラデーションこそが彼女の人格になっていたのではないだろうか。

感想は以上です。
いやー面白かったですねー。ハルガにシンパシーを感じて読んでいたから、最後の展開は本当にショッキング。でも後から考えると、なるべくしてなった感もある。まあ、だからこそショックなんでしょうけど。それにしても多次元空間とかテレポートとかなくても小説って面白んだ、へえー。

僕的に団地系は、脅かす団地と日常系団地に分けられる(今適当に名付けています)。脅かす団地系はストーリーこそ日常の延長であるけれど、その裏側では登場人物たちの人生を揺るがすような激動がある。一方、日常系の団地にはそれがない。本当にただの日常の小トラブルを追ったような、サザエさんみたいなやつが日常系だ。
この『田舎の善人』は明らかに前者だろう。ハルガが経験したのは、ただ義足を無くしただけでは済まされない、今後彼女の生き方に大きな影響を及ぼすであろう出来事だった。彼女はもう以前のハルガのようには生きられないんじゃないだろうか。
団地を舐めてはいけない。団地だからといって、けして穏やかではないのだ。

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