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自己申告制なら、わたしもフェミニスト。
来客の際、どんなに業務が立て込んでいても女性社員がお茶出しを命じられることに対して納得がいかず、上司に異議申し立てを行ったらこう言われました。
「えーでも、やっぱりお茶は女の子にいれて貰ったほうが美味しいじゃん?」
どこから説明したらいいのか…と脱力したわたしに、上司は後日こんなことを言い放ちました。
「ほら、俺フェミニストだからさぁ」
この人、どの口で言ってるんだろうと思い、ついうっかり真顔で「はぁ?」と口走り、その場の空気を凍らせたわたしは今、40代。
しかしながら、そんなわたしも若い頃は、フェミニストに対して良い印象を持っていませんでした。
正直に申せば、怖いオバサンが、よせばいいのになんかギャーギャー怒ってる、それがフェミニストだと思っていました。
無知で愚かなわたし。
だからわたしは自分のことを「差別には反対だけれどもフェミニストではない」と長いこと認識していました。
その前提が大きく揺らぎ、音を立てて崩れたのはアルテイシアさんのコラムがきっかけでした。
アルテイシアさんのコラム及び著作を辿り、むさぼり読むうちに、小さい頃からテレビに出ていたあの田嶋陽子さんが本を書いていることを知り、読んでみて驚きました。
わたしだ。
田嶋陽子さんは、わたしだったんだ。
わたしの苦しみは、わたしだけの苦しみではなかったんだ。
それから導かれるように上野千鶴子さんの著作も読み、わたしはまたしても愕然としました。
わたしがフェミニストに対して抱いていた印象は、恐らくフェミニズムに目覚めてほしくないミソジニーが、そう感じるように仕向けていたものだということに気付いたからです。
アルテイシアさんも、田嶋陽子さんも、上野千鶴子さんも、それぞれ切り口や論じ方は異なるものの、共通するものがあるように思います。
自分の痛みから目を背けず
しっかり痛みとして受け止め
決して無いことにしない
自分の弱さを認める強さがある人。
自分にだけではなく、他者にもその痛みと傷跡と癒えない悲しみがあることを知っている人。
その結果として、他者に対する温かい眼差しを持っている人。
それは、わたしが若い頃にイメージしたフェミニストとは、真逆でした。
そしてそれは、わたしがなりたい人間の姿でした。
上野千鶴子さんが、鈴木涼美さんとの往復書簡の中でこう語っています。
人間の歴史には、異端審問と魔女狩りがあふれています。
フェミニズムはそれからまぬがれていると、わたしは思ってきました。なぜならフェミニズムは自己申告概念だからです。フェミニストと名のった人がフェミニスト、正しいフェミニズムとまちがったフェミニズムがあるわけじゃない。
中略
なのにいちいち外野から「フェミか反フェミか」という白黒認定を受けるんですね。ばかばかしい。わたしはわたし、と放っておきなさい。
それならわたしは、間違いなくフェミニストだ、と思いました。
性別で括られることに怒り
納得がいかないと深く憤り
自分を犠牲にしてでも弱き者を守ろうとし
1人で考えて考えて、考え抜いてようやくここまで生きてきたわたしは、自分でそう認識するよりずっと前からもう、フェミニストだったのです。