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【『目を開けて、もっと私を見て』を読んで思うこと】


この詩のことをご存知の方も多いことでしょう。

私がこの詩について知ったのは、ケアマネの認知症研修のときでした。

イギリス・ヨークシャー・アッシュルティ病院で亡くなられた老婦人の遺品の中から見つかったものです。彼女は重度の認知症でした。

『目を開けて、もっと私を見て』

何が見えるの 看護婦さん
あなたには何が見えるの

あなたが私を見る時
こう思っているんでしょう

気難しいおばあさん
利口じゃないし
日常生活もおぼつかなく
目をうつろにさまよわせて
食べものをボロボロにこぼし
返事もしない

あなたが大声で
「お願いだからやってみて」といっても
あなたのしていることに気づかないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる

面白いのか 面白くないのか
あなたの言うなりになっている

長い1日を埋めるために
お風呂につかったり
食事をしたり

これがあなたの考えていること
あなたが見ていることではありませんか

でも目を開けてごらんなさい 看護婦さん
あなたは私を見ていないのですよ

私が誰なのか教えてあげましょう
ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるままに起き上がる
この私が誰なのか

私は10歳の子どもでした
父がいて 母がいて 兄弟・姉妹がいて
皆お互い愛し合っていました

16歳の少女は 足に羽をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました

20歳で もう花嫁 私の心は踊っていました
守ると約束した誓いを胸に刻んで

25歳で 私は子どもを産みました
その子は 私に安全で幸福な家庭を求めたの

30歳 子どもはみるみる大きくなる
永遠に続くはずの絆で母子は互いに結ばれて

40歳 息子たちは成長し 行ってしまった
でも夫は傍らにいて 私が悲しまないように
見守ってくれました

50歳 もう一度赤ちゃんが膝の上で遊びました
私の愛する夫と私は再び子どもに会ったのです

暗い日々が訪れました 夫が死んだのです
先のことを考え 不安で震えました

息子たちは皆
自分の子どもを育てている最中でしたから…

それで私は 
過ぎてきた年月と愛のことを考えました

いま私はおばあさんになりました
自然の女神は残酷です
老人を馬鹿のように見せるのは
自然の女神の悪い冗談です
体はボロボロ 優美さも気力も失せ
かつて心があったところには
今は石ころがあるだけ

でも この古ぼけた肉体の残骸には
まだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心をふくらます

私は 喜びを思い出し 苦しみを思い出す
そしてもう一度愛して生きなおす

年月は あまりにも短すぎ 
あまりにも早く過ぎてしまったと私は思うの
そして なにものも永遠ではないという
厳しい現実を受け入れるのです

だから目を開けてよ 看護婦さん…
目を開けてください
気難しいおばあさんではなく「私」を
もっと良くみて!

詩は静かなメロディと共に朗読されました。

会場のあちらこちらで、すすり泣く声、ハンカチで目頭を押さえる姿がありました。
私もそのひとりでした。

この詩は大切なことを伝えてくれています。

『尊厳の保持』
ひとりの人間として尊重されることの大切さです。

福祉がや介護、看護を生業としていない方でも、誰もが最も大事にしなければいけないことです。

老婦人は重度の認知症と診断を受けていました。
きっと、心を閉ざしてしまった方に対してコミュニケーションを取ることは、至難の業だったでしょう。

介護する側は、こんなに重度だから、きっと話も通じない、仕方ない、どうせ無理…
そんな決めつけで相手を理解しようとしない、あきらめの気持ちもあったでしょうか。

業務の慌ただしさ、仕事の慣れも相まって、自分を振り返る余裕がなかったのかもしれません。

人には人それぞれの歴史があります。
歳を重ねると、「若い頃、1番輝いていた時代のことを話したい、聞いてほしい」と思う方は大勢います。

「老いて介護される」ことは、介護する側にとって推測でしか考えられません。

自分が歳をとって、介護される側になったときの気持ちを想像し『察する力』があれば、介護者は悩みながらも進んで行かれると思います。
寄り添うとはそういうことではないかと思うのです。

高齢化社会が進み、認知症を患う方はますます増えます。
そういう私もいずれなるかもしれません。

例え、思うように会話ができなくなっても、体が動かなくなっても、ひとりの人間として接してほしいと思います。

会場で涙を流していた人の中には、その老婦人が、亡くなってから本当の気持ちが伝わったことに対して、かわいそうだと感じていた人もいたでしょう。

日頃の自分を省みて、心を正していた人もいたでしょう。

だいぶ前の研修になりますが、私にとって記憶に残った研修でした。

この詩が見つかり、こうして後世を生きる者の心の支えになっていることに縁を感じ、感謝しています。

そして、慌しい日常を省みるときに、この詩を読むようにしているのです。

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