庭師になるまで06 自然の循環に学ぶ
見えない”土中の世界”や”植物の知性”を知って、僕の自然観は大きく変化した。
それまで見逃していた足元の資源や、生態系のバランスを活かした場を設えたいと思った。
できるだけ逆らわず、自然の循環を取り入れる。
"コントロールではなく手入れ"を通じて対話する学びの庭づくり。
落ち葉はごみ?
一般的に見ればコストをかけて処分される落ち葉。
今では魅力的な資源で、邪魔者扱いされるのはちょっと切ない。
土に落ち葉を被せることで表土が保護され、雨による土壌の流出や締固めを防ぐ。
そして、菌類や微生物の働きによって分解され養分となり、いずれ土となる。
循環する仕組みだ。
さらに、夏の暑さや冬の寒さから根を守る、人に例えれば服の役割をしてくれる。
風による飛散を防ぐには、上から堆肥やチップを撒けばいいし、菌糸が生じればその粘性で飛びづらくなる。
見た目が気になる場合は、落ち葉の上に樹皮繊維のマルチング材で薄化粧すればいい。
なにより、春に落ち葉の絨毯をかき分けて新芽がでてくる姿は、自然みがあってとっても愛らしい。
虫は邪魔者?
いつのまにか邪魔者扱いしていた小さな生き物達も見え方が変わった。
小さい頃によく虫取りで遊んだことを思い出す。
子どもは皆、センスオブワンダーという自然の不思議さに驚嘆する感性を持っている。
その目線で生き物を観察すれば、虫達の様々な働きに気づくはずだ。
僕らは見てないところで彼らの働きに支えられている。
もちろん良いことばかりでなく、悪影響を与えるために害虫とみなされるものもいるし、人に危険が及ぶものもいる。
対処が必要な時があるもの当然だ。
しかし、農薬や殺虫剤ばかりに頼ると、短期的に見れば減ったように見える害虫も、長期的に見ると生態系のバランスが壊れて天敵がいなくなり、結果的に増えることもある。
農薬の残留性や人体への影響は、今から60年以上も前にレイチェル・カーソンが「沈黙の春」で示している。
化学物質によってはここまでは安全という見方もあるが、生き物が死ぬ物質が人にとって良いものとは、僕は感覚的に思えない。
自然相手では、化学ですべてがわかるものではないし、その一部を切り取って良し悪しが判断できるものでもない。
だから、害虫とよばれる生き物も生態系にとっては何らかの役割があるとみて、可能な限り適切な距離を保って付き合っていきたい。
おおらかな気持ちで多様性を高めていけば、特定の虫が大量発生するリスクは減るはずだ。
自宅の庭では竣工時、植物種が少なくコデマリの本数が多かった。
この年がアブラムシの発生量がもっとも多く、年を重ねて植物種が増えるにつれてその数は減っていった。
当時は水遣りのたびにシャワーの水圧で飛ばしていたが、今では気にすることはない。
シャワーの代わりは、テントウムシがやっている。
経験を重ねながら、その時々に最善と思える方法をとっていきたい。
最高条件と最適条件
自然の良い部分を切り取る都市生活。
その暮らしに慣れてしまい、世界が不安に包まれたとき、植物生態学者の宮脇昭さんの言葉が印象に残った。
「植物学の世界にも「最高条件」と「最適条件」という考え方があります。いろいろな実験がありますけれども、植物が長く生きられ続ける生態学的な条件とは、生理的な欲望がすべては満たされない、少し厳しい、少し我慢を強要される状態なんですね。
これが一番健全な状態で、最適条件と言います。
それに対し、生理的な欲望をすべて満たしてしまうような最高条件の状態では、生命は長続きしないのです。」
人間が最高条件を求めた揺り戻しが、ウイルスや環境問題に思えた。
人は土地を取得すると、最高条件を求めて家を建てるが、建築が土地や環境に与えるインパクトは大きい。
しかし、家という暮らしの拠点は人間にとって欠かせないものだし、僕も”最高条件”を求めて家を建てている(その結果土地を傷めている)。
だから、せめて庭では”自然の循環”に目を向けて、手入れを通じてバランスを保ち、人間も含めた多くの生き物にとっての”最適条件”がつくれたら良いと思った。
人が定住することで自然がより豊かになったら、まちなみもきっと美しくなるだろう。
次回、”学びの実践”。