医師になってから 一生の友人
■子どもの頃のようにはいかない「話しかける」ということ
私は地方医科大学出身で、そのまま地方医科大学で研修医になりました。当時それが当たり前だと思っていましたが、地元の神奈川県に戻り、当時を振り返ると、あれは異常だったのだと気づかされることが多々ありました。
例えば地方の基幹病院、大学病院で救急外来をしていたときです。長時間労働、睡眠も食事も取れないのが当たり前。私生活においても食生活はひどいもので、自分の勉強さえままなりません。日々をただ、こなしているような毎日でした。
毎日同じような仕事をして、毎日同じ同僚と仕事をして、定時帰れるときはなく、ロクなものを食べていない。このような状況ですと、ストレスも溜まってくるものです。ましてや研修医ともなれば、病院カーストの最下層にいるわけですから、ある意味、ストレスしかない毎日です。ただ、そんな中にいれば、同じ最下層にいる者同士、自然と仲間意識も出てきます。
金沢医科大学出身の私が金沢大学出身の彼と出会ったのはそのような境遇の中でした。私が毎日仕事でミスばっかりしているのに対して、彼はいつも黙々と完璧に仕事をこなしていて、「すごいなぁ、かっこいいなぁ」と思っていました。仕事ではもちろん話しますが、なんか変な奴と思われてもいやだったので、あまり突っ込んだ話はしませんでした。とくに私生活に関しては。
しかし、ある日の帰り、思い切って話しかけてみたのです。こんな書き方ですと、まるで告白のようですが、もちろんそうではありません。ですが、思い切りがなければ話しかけられませんし、勇気を持たなければ一歩前に進むこともできません。
子どもの頃は、あんなに簡単に話しかけて、すぐに友達になれたのでしょうか。小児科医として、つねに子どもに接する仕事をしている身としては本当に疑問です。きっと断られたり、変に思われたりしたくないのでしょう。でも、ここで声をかけていたら、あの美人看護師とつきあえたのではないだろうか? もしくは病院医事課のアイドル受付嬢とつきあえたのではないか? と、自分が勇気をもって声をかけられなかった後悔ばかりが今もあるのです。
……話がそれましたね。戻りましょう。
■病院カースト最下層同士の私たち
私:「ねぇ? これから帰るの?」
彼:「うーん。当直明けだったから、もう寝るだけだよ。でも洗濯機回さないといけないんだよね」
私:「そうだよね。疲れるよね。いつまでこんなの続くんだか…」
彼:「研修医は仕方がないよ」
ともに大学から派遣されて、病院が借り上げたアパートに帰る雪道を歩いてポツリポツリと話しました。能登では雪はつねに残り、冬は毎日どんより雲が出ています。おかげで気持ちが滅入ってしまうのですが、みんなそうだったのでしょう。
彼:「今日さ、うちで食事しない?」
私:「いいけど、何食べる?」
彼:「家にじゃがいもあるんだけど…」
私:「でも当直明けだから何も食べたくないんでしょ? 車出すからさ。何かスーパーで買ってくるよ。その間に部屋片づけといたら?」
彼:「部屋は片付いているよ。一緒に買い出し行こうよ」
確かの彼の部屋は片付いていました。私が部屋に帰るとストレスMAXで、まず脱いだ服を壁に叩きつけていたのとは違います。部屋は私もきっちりした性格なので、片づけているのですが、玄関入ってすぐの場所には脱いだ服が散らかっています。偏見かもしれませんが、さすが国立大学医学部出身だと思ったのを今でも覚えています。
私の車でスーパーに行き、鍋をつついて話し合いました。研修医になるまでの道のりも全く違うのですから、お互い探り探り気を許していいものなのかと考えたり、雑談しながらお互い気を許せるようになるまでは時間がかかりました。きっとお互いに、「あっ、これいやだな」というところはあったでしょう。
■今ではなくてはならない友人に
私は小児科医、彼は神経内科医です。
進んでいる道は違うけれども、今でも会っていろいろ共有できる友人です。何でもできる彼は出世街道一直線。逆に進んだ道が違うから、お互いに批判することもないのかもしれません。でも、友人だから言えるきつい言葉もあります。会わない時間があっても、相手のうわさが耳に入ってくると嬉しい気持ちになります。彼とは同じ丁稚奉公で生まれた仲間意識もあり、私は彼を一生の友だちだと思っています。
勇気を出して話しかけた。
これが私の研修医時代に挙げたお手柄。そしてこれは人には……彼には話せないことですが、私は私の目標となる友人と出会えたことが幸せだと思っています。
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