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読了本感想⑫『CF』/吉村萬壱
責任の所在、という慣用的な言い方がありますが、事件や事故、あるいは不祥事などの責任の所在が、これほど曖昧に感じられる時代というのは、かつて無かったのではないでしょうか。
例えば江戸時代。客に売った桶に何らかの不具合があった場合、(桶はただの例えです。深い意味はありません) その責任を負うべきは、その桶を一から十まで一人で作った、その桶職人一人です。
翻って現代。大企業が造った自動車に何らかの不具合があった場合、その責任を負うべきは、いったい何処の誰でしょうか。自動車一台を造るのに、何百、何千もの人々が関わっているのです。その中の誰に最も責任があると言えるのでしょうか。
つまり、産業の仕組みが大きくなり、造っているのもが複雑になっていけばいくほど、分業が進めば進むほど、何か起こった時の責任の所在というものは、曖昧になっていくと思うのです。人々はより無責任になっていくと思うのです。
これは何も企業に限った話ではありません。あらゆる組織、あらゆるシステムに関しても同じことが言えると思います。組織やシステムの規模が大きくなればなるほど、歴史が長くなればなるほど、何か問題が起こった時に責任を負うべき個人というのは、特定しづらくなると思うのです。
そういう意味で言うのなら、この国も、この世界も、民主主義や資本主義というシステムも、長く、大きく、なり過ぎてしまったのかもしれません。
そのような社会の風刺として書かれたであろう本作では、『CF』と呼ばれる半官半民のような巨大企業が、本来は概念であるはずの「責任」を物質化し、さらにはそれを「無化」するシステムを開発して、企業や政治家が犯した罪の責任を次々と消してしまっているのです。
そのシステムの存在はあくまで噂話の範疇を出ない訳ですが、CFに依頼してそれ相応の報酬さえ払えば、どんな大きな罪や不祥事の責任も、文字通り消してしまえるというのです。
そして、このシステムの恩恵にあずかっているのは、企業や政治家だけではありません。これは、無責任体質がはびこっているのは企業や政治家だけではなく、我々一般人も同じなのだ、との作者の認識の表れだと思うのですが、CFへの協力の仕方次第では、特に権力などない我々のような一般人でも、犯した罪の責任を「無化」して消して貰うのは、決して不可能なことではないのです。
この「無化」のシステムが本当にあるのかないのか分からないまま、噂話の範疇をあくまで逸脱しないまま、話がぬるっと終わっていたのなら、本作はしょせん現実世界の風刺に過ぎずに終わっていたと思います。ただの寓話ということで済まされていたと思います。
ですが、本作はそうではないのです。
物語の後半、そのシステムが実際に存在していることと、その仕組みの大元となっている考え方とが、明確に語られることになるのです。それにより、この物語がただの風刺や寓話ではなく、現実の社会と地続きの話でることに、読者は気づかされることになるのです。
……CFの社長自らが語る「無化」のシステムの秘密とは、人々の「共同幻想」を利用することだったのです。
作中ではカネのことを例に挙げているのですが、カネも、国家も、宗教も、全ては虚構の産物です。Y・N・ハラリの『サピエンス全史』にもありますが、それら虚構の産物が実際にあると多くの人が信じることで、人類はダンバー数を遥かに越える大集団を維持することが可能になり、今のように発展することが出来たのです。
CFが行っているのもこれと全く同じことです。「無化」というシステムの実在を多くの人が信じてしまえば、偽薬が実際の効果を生むように、「無化」は実現することになるのです。
というか、そもそも、「責任」という概念自体が、他者との関係性の中から生まれてくる、極めて社会的なものなのです。もし私が人類の最後の生き残りの一人ならば、誰に対しても、何に対しても、一切責任などないのです。責任という概念そのものが、人々の想像の産物に過ぎないのです。
だとしたら、「無化は可能だ」との新たな幻想を人々に植え付けることさえ出来てしまえば、責任の無化、という突拍子のないシステムも、絶対に実現不可能だとは言い切れないことになるのです。
……こういう風に考えてきますと、虚構により発展、拡大してきた人類ですが、発展し、集団が大きくなり過ぎてしまったことが、今度は逆に様々な問題を生み出して、人類衰退のきっかけになってしまうのではないかとさえ私には思えてくるのです。大き過ぎる人間の集団は責任の所在をひどく曖昧にしてしまいますし、高度化、分業化し過ぎた知識や技術の体系は、その伝達や継承をいたずらに難しくしてしまうからです。
そして、SNS上に溢れる無責任な言説や、今まででは考えられなかったような大企業や政治家の不祥事。それから、少子高齢化の問題や、団塊の世代の引退による知識や技能の断絶の問題。そういった諸々のことを併せて考えてみるならば、その文明衰退の段階が、膨張の果ての収縮のフェイズが、少なくともこの日本という国においては、もう始まってしまっているのではないかと思えてくるのです。
……そうしてやってくる未来とは、いったいどのようなものになるでしょうか?
私はついつい、パオロ・バチガルピの『第六ポンプ』のような世界を思い描いてしまいました。
その短編では何処までも無責任で人任せな未来の人々は、先人が造ったインフラや公共施設などのシステムに依拠して暮らしているのですが、それがいったん壊れてしまったら、もう誰にも直すことが出来ないのです。修理のマニュアルすらも彼らには読むことが出来ないのです。そして、「おい、いったいどうなってるんだ! これじゃあ生活できないじゃないか!」と声高に訴えてみたところで、それに答える「責任」者など、初めから、何処にも存在しないのです。
とにかく面白かったです。先日文庫が出ましたので、未読の方は是非!