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『情報の交換』と『情緒の交換』
たまに心が軽くなりそうな本を読む。
私の数多い「積ん読コレクション」の中に、このような本がある。
『生きることに疲れたあなたが一番にしなければならないこと』(早稲田新書)
(著者:加藤諦三)
人生後半ともなると🍥、ときに「何か人生疲れたかも🦆」と感じる方は多いのではないかという気もする。
私も、きっと何かの癒しを求めて本書のタイトルに惹かれたのかもしれないが、段々と読み疲れてきて^^; まだ完読していない。
しかしながら、本書に面白いテーマがあったので、ご紹介したい。
※※※※※
🐦「共感的人間関係(または『共感的鳥(🐦)関係)』」🐦
冒頭でご紹介した書籍の一部で、「共感的人間関係の形成」とか「共同体感情」、「感情表現を通じた感情交流」なるトピックをとり(🐦)扱っていた。
例として書かれたケースを1つ引用する。
それは、ある人が「今日は寒いなあ」と言った場合、その人は「そうですねぇ、寒いですねぇ」みたいなリアクションを期待しているのだが、ここで感情の交流ができない人は「まあ、2月ですから(寒いのは当然なんじゃないでしょうか)」と答えたりする、、、みたいな話であった。
さて、、、
これ、意味が分かるだろうか?
私は、このくだりを読んだときに、夜中にもかかわらず、「ヲー! 分かる分かる分かる分かる! いるよいるよ、そういう人(とか鳥🐦)!」と勝手にテンションがハミング🐦ハイになってしまった。
これは、どういうことか?
たとえば、皆さんが職場にいて、そろそろ退社時間も迫っているとする。
そこで、ふと窓の外を見ると、何だか雲行きが怪しい、、、ような気もする、、、ような、、、しないような。。。
朝は天気予報見たのに、雨☔降るとか言ってなかったじゃん、、、みたいな気持ちになりつつある。
そこで、軽いトーンで隣の同僚にこのように言うとする。
「何か、空模様怪しいよね? 傘持ってきてないから、このタイミングで振られちゃうと、ちょっと困っちゃうかも、、、」
このとき、感情の交流ができる人は、一例として、このように答えるのではないだろうか。
「あ、ホントだ! 何かちょっと暗くなってきたかも。私も傘持って来てないし、降らないといいね。天気予報で雨とか言ってなかったから、大丈夫だと思うけど、、、まあ、お互い、あまり遅くならないように帰ろうか!」
ただし、ここで感情の交流ができない人は、次のように答えるかもしれない。
「はい? 女王ハチドリ🐦さん、アナタは帰宅されるまでに雨が降って濡れることを心配されているのですか? 気象庁より、本日18時~19時にかけて降水量にして1mm以上の雨が降る確率は10%と報じられており、これを10%という予報が100回発表されたとき、その内のおよそ10回は1mm以上の降水があるという可能性の高さについての予報としても解釈する場合、女王ハチドリ🐦さんが心配されるような事態が発生する可能性は決してゼロとは断言できないものの、極めて低いと思われます!」
、、、ちょちょちょちょちょ、、、ちょう(鳥🐦)!
少し極端に書いたが、実際に会話をしていると、これに似たような返しを頻繁にする人がたまにいるように感じる。
要するに、こちらとしては「寒いなあ」とか「雨降ったら嫌だなぁ」などと言った場合、別に「なあ、、、いいこと教えてやろうか? 実はさぁ、、、今日って、、、寒いんだぜ!」といった「情報」を伝えることを目的としておらず、また「雨降ったら嫌なので、雨が降る確率について、できるだけ正確な情報を教えてほしい」とは必ずしも望んでいないのである。
そのような「情報」を必要としているのではなく、単に「ホントに寒いよねぇ」とか「雨降ったら嫌だね~」とか、感情的に寄り添ってほしい、言い換えれば「情緒」のやりとり(🐦)をしたいだけだったりするのである。
そういう意味で、コミュニケーションは「情報の交換」を目的とする場合もあれば、「情緒の交換」を目的とする場合もあり、ときとして「情緒の交換」が、人間関係の構築、またはストレスを軽減しながら共同体を生き抜くために重要である、というのが冒頭の書籍が1つのチャプターを通じて訴えかけていた内容である。
当然、情報と情緒の何れの交換を重視すべきかは場面によりけりであるため、仕事の打ち合わせで毎回、「当社の売り上げが伸びないですなぁ、、、」、「そうですなぁ、困りましたなぁ」、「こんなことでは、気持ちが塞ぎ込みますなぁ」、「でも頑張ってピヲピヲ🐦やっていく必要があるんでしょうなぁ」、「私もピヲピヲ🐦と頑張りますんで、皆さんもピヲピヲ🐦と、、、」なんて日がな1日ピヲピヲ🐦やってても、何の打開策も生まれず、こういった場では、現状分析データ、市場全体の動向、当社の強み、具体的な施策、、、など「情報」の交換が強く求められ、ときに合間に「情緒」の交換が介在するといったコミュニケーションが理想的とされるであろう。
ただし、「情緒の交換」が社会生活を営む上で大切であるという点には、私も強く同意する(noteのコメント欄の交流なんか、私🐦🐦も含めて「情緒の交換」を求めている人が多く集まる場なのではないだろうか)し、「極めて活用性に乏しい無駄話」なんかも大好きで、そんなコミュニケーションに心を癒されることも多々あると実感している。
そういう意味で、「情緒の交換」の有用性を説くことにより、書籍タイトルの「生きることに疲れたあなたが~」を回収しようとする試みにも整合性を感じる次第である。
※※※※※
今回ご紹介した書籍を読む中、1つ思い出したエピソードがある。
昔、ネットのチャットルームのような場所で、「おでん🍢」の話で盛り上がったことがあった。
その流れで、(私🐦🐦も含め)ルームに居たメンバーが交互に「私は大根がスキ!」とか「私はコンニャク!」とか盛り上がっていったのだが、1人が唐突に「え? これ、みんなで言ってくの? 別にアンタらのスキなおでんの具とか興味ないし、、、何の意味があるの?」と書き込み、急に全員がトーンダウンしたことがあった。
そのとき、私は単純に「みんなでいい気分になっているところに水を差し、この人は何て意地悪な人なんだ!」と感じた。
ただ、今回の話を考えると、この人はコミュニケーションにおいて「情報の交換」だけを重視するタイプの人だったのか?🤔という気もしている。
要するに、「アナタたちのスキなおでんの具という『情報』を私が得ることによって、その『情報』を今後の私の人生にどのように有効活用できるというのか?(いや、できやしまい)。ということで、役に立たない『情報』の交換によって、貴重な時間を浪費することはやめませんか? 」というような考えの人だったのかもしれない。。。
知らんけど🤷🤷♀️🤷♂️
あ、
🏸パコーン🌪️🌪️🌪️🤷
🏸パコーン🌪️🌪️🌪️🤷♀️
🏸パコーン🌪️🌪️🌪️🤷♂️
と、最後に🤷🤷♀️🤷♂️←この人たちを脈略なく唐突にラケット🏸でカッ飛ばし、少し心が軽くなった気がする!